晴眼者の後輩と温泉にいった。
後輩は脱衣所から洗い場、浴槽、露天風呂、しっかりとサポートしてくれた。
身体を洗っている途中に声をかけてくれた。
「背中流しましょうか?」
僕はその暖かな言葉だけいただいて辞退した。
でもうれしかった。
そして父ちゃんを思い出した。
見えなくなった僕を父ちゃんは幾度かここに連れてきてくれた。
その頃僕は40歳を過ぎていたし父ちゃんは80歳を過ぎていた。
他のお客様の邪魔にならないように、ツルツルの床ですべらないように、
見えない僕の世話は大変だったと思う。
父ちゃんは湯船に入ると必ず同じことを言った。
「温泉は気持ちいいなぁ。」
僕はその言葉を聞くと何故かとてもうれしくなった。
そしていつも、洗い場で父ちゃんと並んで身体を洗いながら迷っていた。
父ちゃんの背中を流してあげたい。
でも、距離感もアバウトだし、失敗して逆に心配させてもいけない。
ちゃんとできるかの自信もなかった。
勇気が出なかった。
父ちゃんがいつまでも生きているわけではない。
僕はある時、そう自分に言い聞かせながら決心をした。
まさに一か八かだった。
タオルに石鹸をつけて、数歩隣に動いて手探りで父ちゃんの背中を探した。
「背中流すよ。」
僕はそれだけ言って父ちゃんの背中を流した。
父ちゃんは驚いた感じだったが黙っていた。
最後にありがとうと言ってくれた。
僕は気恥ずかしさをシャワーで流した。
それから温泉に行く度に父ちゃんの背中を流した。
ささやかな僕の幸せだった。
父ちゃんが亡くなってから温泉に行くこともほとんどなくなった。
久しぶりに温泉に入って思った。
「温泉は気持ちいいなぁ。」
湯煙の向こう側で父ちゃんが笑ってくれたような気がした。
(2019年4月22日)