両親が鹿児島から京都にきたのは僕が25歳の頃だった。
母が大病を患ってそれまでの暮らしが続けられなくなったのだ。
一応長男だった僕を頼ってくれたのだろう。
細々ではあったが普通の日々が続いた。
それから15年後の僕の失明さえなければ、
それはもっともっと穏やかに続いていったのかもしれない。
事実を受け止めるということは僕だけでなく家族も友人達も皆そうだったのだろう。
時間の流れの中で、
見えないということを僕も周囲も受け止めていった。
あきらめていったという方が的確かもしれない。
僕と両親との京都での暮らしは33年くらい続いたということになる。
4年前、父は93歳の生涯を閉じ、88歳の母が残った。
母は鹿児島の妹のところへ引き取られていった。
それから朝の電話が始まった。
毎朝8時に母から電話がくる。
元気という確認、それに天気の様子くらいがいつもの話題だ。
雨だったら、家から出るなと母は言う。
仕事なんかしなくていいから家で過ごすようにと言う。
大丈夫と説明すると、タクシーで行くようにと注文をつける。
僕は了解と嘘をつく。
それでも会話の最後にはいつもの言葉が続く。
「危ないから気をつけるんだよ。」
携帯電話を切って僕は少し上を見上げて、それから深く息をする。
きっと一生あきらめられないだろう母に申し訳ない思いがこみあげる。
そして深く感謝する。
(2019年4月15日)