大学の社会福祉学科に通っていた僕が養護施設を知ったのは21歳の時だった。
親と離れて過ごさなければならない子供達に出会って愕然とした。
大学を卒業して、何の躊躇もなくそこに就職した。
見えなくなる直前の39歳まで働いた。
我武者羅に必死に働いた。
労働時間も収入も一般社会とはかけ離れていたが使命感はそれを越えていた。
子供達への愛情もあっただろうし、社会の不合理への怒りみたいなものもあった。
憤りも悔しさも抱えながらの毎日だった。
若いエネルギーが僕を支えてはいたが、薄っぺらい正義感だったのかもしれない。
振り返れば恥ずかしく思うことばかりだ。
卒園生の一人の女の子は神戸の震災で命を落とした。
19年という短い生涯だった。
震災の直前、最後に会った日のことを僕は忘れることはできない。
それから毎年、1月17日の前後の休日にお寺にお参りをしている。
当時の保母さん、亡くなった女の子と同じ年の子供達も一緒だ。
子供達ももう43歳になった。
親の顔を知らないで育った子供達が親になっている。
不思議な感じがする。
そして見えなくなった僕を彼らは自然に受け入れてくれている。
普通に介助をしてくれ、普通に手伝いをしてくれる。
「比叡山が頂上までくっきり見えていますよ。」
洛北のホテルのレストランから見える風景を語ってくれる。
勿論、僕に殴られた話はいくつも出る。
和やかな時間が通り過ぎていく。
そして僕の前にはいつも、あの頃の少年達の笑顔がある。
亡くなった女の子の笑顔がある。
映像があの頃のままで止まってしまっているのは、
ひょっとしたら幸せなことなのかもしれないとさえ思う。
(2019年1月14日)