彼は未熟児網膜症で生後三か月で光を失った。
体重は1500グラムだったそうだ。
保育器は彼の命を救ったが網膜の成長は止めてしまったらしい。
だから見た経験はない。
「IPS細胞の研究も日進月歩だから、いつか見えるようになるかもしれないね。」
50歳前の彼にはチャンスがあるかもしれないと思って、僕は希望的観測を伝えた。
彼はきっぱりとそれを拒否した。
「見えるという言葉を知っているし、なんとなくの想像はあります。
でも、あくまでも僕の想像です。」
彼は淡々と語った。
想像と違ったら、それを受け止める自信がないとのことだった。
怖いとも表現した。
そして、見えないと言われる状態でもちゃんと生きてこれたのだと言った。
僕は50年という歳月を彼が生きてきたのだと痛感した。
医学は見えない人が見えるようになることをよしとするだろう。
でも、人間の心はそうとも限らないのだ。
それは見たことのある僕には理解できないことなのかもしれない。
別れ際にそっと尋ねてみた。
「なんとなくだけど、今日は声が弾んで聞こえたんだけど。」
「そうでしょう。今、好意を寄せている人がいるんですよ。」
彼は笑った。
僕はなんとなくほっとした。
見えるとか見えないとか、彼にはたいしたことじゃないのかもしれないと思った。
(2018年12月3日)