僕は彼女の名前を知らない。
勿論、顔も知らない。
どこに住んでおられるのかもしらない。
これまで何度出会ったかも定かではない。
知っていることと言えば、
コーラスが趣味で週に数回練習に行っておられるということ、
敬老乗車証を利用してバスを乗り継いで移動しておられるということ、
植物の名前などをよくご存知だということくらいだ。
同じバス停で出会うということはきっとご近所なのだろう。
バス停でバス待ちをしている僕に躊躇せずに挨拶をしてくださるということは、
彼女にとったら僕はすっかり隣人ということなのかもしれない。
バスが到着するまでの彼女との数分間、
それはまるで美味しいモーニングコーヒーを飲んでいるような時間だ。
「街路樹がだいぶ色づいてきましたよ。」
そんな言葉で今朝の会話は始まった。
バス停のある通りはハゼの木が植えられていて真っ赤になるのだそうだ。
僕が20年くらい前まで見えていたことを伝えると、
彼女の説明は延長された。
一つ目の信号を曲がると次の通りはイチョウの木とけやきの木らしい。
けやきの木は赤や黄色になるということは僕も知っている。
イチョウは黄金色を思い出す。
そしてまた次の大通りを曲がると、
街路樹に常緑樹も混ざってグラデーションが美しいらしい。
僕の頭の中で秋の街が赤や黄色に彩られていく。
僕の目線は無意識に空に向かう。
透き通るような空に秋の色と形がよく映える。
「でも素敵な季節は短くて人生と同じ。」
彼女が微笑む。
いいタイミングでバスが到着する。
彼女は僕と同じバスに後ろから乗り込みながら、
「行ってらっしゃい。」
小声でささやいてくださる。
「ありがとうございます。」
僕は大きな声で返事をしながら乗車する。
きっと素敵な一日になるだろうという予感を乗せて、
秋の朝のバスは動き始める。
(2016年11月12日)