講演が始まる前のわずかな時間、
柔らかな口調の紳士は僕のところまで来て声をかけてくださった。
「近くに来られる時があったら立ち寄ってください。」
そして点字模様の小さな紙袋を僕に手渡された。
紙袋には丁寧に包装された数種類の紅茶のパックが入っていた。
帰宅して早速飲んでみた。
その豊かな香りに驚いた。
このお店に行ってみたいと思った。
僕が思ったというより、僕の鼻がそう決心したようだった。
数日後、午前中の用事を終えてから夕方の会議までに3時間程あった。
僕は躊躇なく京都紅茶クラブまでのサポートを目が見える友人に頼んだ。
祇園宮川町の近く、いにしえから流れている街の空気を感じながら歩いた。
これから仕事に行くらしい舞妓さんと何人かすれ違ったりした。
京都紅茶クラブはすぐに見つかった。
メニューには何十種類もの紅茶の説明書きがあったが友人の代読を僕は途中で止めた。
香りをイメージするという作業がとても困難なのに気付いたからだ。
結局、僕は「砂時計」というオリジナルブレンドを注文した。
ティーカップもたくさんの中から自分の好みでチョイスするというこだわりようだっ
た。
ティーポットもいろんな種類があった。
小さなお店なのだが、
やっぱり喫茶店ではなくて紅茶クラブなのだと実感した。
豊かな香りの中、舌先で感じる渋みが脳を麻痺させていくようだった。
砂時計を幾度かひっくり返したくらいの時間を過ごした。
幸せだと感じた。
目が見えないことなんて忘れてしまっている自分にふと気づいて、
何か可笑しかった。
見えた方がいいし、見たいと思っているし、
でもそれが叶えられなくても幸せはすぐ隣にいてくれたりするものなのだ。
それを探すのは目ではないのだろう。
いつ来れるか判らないけれど、
次は「風のささやき」を飲むことだけを決めて店を出た。
(2016年3月13日)