「ここに来ればいつかお会いできると思っていました。うれしいです。」
さわさわに立ち寄った僕を見つけて、
彼は言葉を選びながら気持ちを伝えてくれた。
僕が失明した18年前、大学生だった彼は山登りの途中に崖から落ちた。
そして頭部を激打して身体障害者になった。
車いす生活でもう歩けないかもしれないと医師に宣告されながら、
ただ歩きたいという思いだけでリハビリを続けた。
歩くことはできるようになったけれども、右手の自由は取り戻せなかった。
ペンを握るのもお箸を持つのも左手に代えた。
失明後の僕が仕事をしたくて歩き回り、
結果的にそれがリハビリになったと著書に書いていた部分を彼は取り上げて、
とっても共感を覚えたと言った。
他にも共感を覚えた部分をいくつも取り上げた。
本を書いた僕よりも彼はしっかりと本の内容を記憶していた。
本だけではなく、
以前僕が書いていた新聞のコラムなども憶えていてくれた。
ずっと前から、僕の言葉が彼の傍にあったことが伺えた。
僕はただただ光栄だと思った。
別れ際に握手した彼の手はザラザラだった。
彼がやっと見つけた段ボールや廃棄油の処分の仕事は
仕事の内容も条件もとても厳しいものだった。
それでも彼の口から不満はでなかった。
交わした会話のどこにも、
自分の人生への否定的な言葉はなかった。
笑顔さえあった。
社会に参加できる幸せだけが伝わってきた。
18年という時間、僕達はそれぞれの障害と向き合い、
人間の価値とか幸せの意味を考えなければならなかったのだろう。
そして同じ答えにたどり着いたのだ。
新しい友達との出会いに感謝した。
そして、もっともっと書かなければと強く思った。
友達のために書かなければと思った。
(2015年2月3日)