嵐山の駅のホームに足湯がある。
20人も座ればいっぱいになる小さなものだ。
あることは知っていたが、
なかなか行く機会がなかった。
見えなくなってから、いわゆる一般の温泉に行く機会は少なくなった。
初めての場所は、単独では躊躇してしまう。
浴場を白杖で歩くのも気がひける。
ガイドが女性だと、そもそも無理だ。
結局、いつのまにか遠ざかっている。
足湯は、手軽に行けて、
温泉好きの僕には、たまらない場所になりそうだ。
小さな空間に、
旅行者、近隣の人、中国人、台湾人、韓国人、それぞれの言葉で笑顔が集う。
男性も女性も、若者も、昔の若者も、
生きている今に、ささやかな幸せを感じている。
そこに、白杖を持った見えない僕もいる。
それだけで、平和っていいよなって思ってしまう。
150円で体験した、最高級の幸せの話でした。
(2013年7月5日)
Category: 松永信也からのお知らせ&エッセイ
足湯
大学生
昨日は大阪の大学での講義だった。
毎年行っている大学なので、
学校のだいたいの雰囲気は判っているが、
一回の特別講義なので、学生達は初めて出会うということになる。
教室に入った時、
そこには普通の大学生達の日常があった。
大人数での必修の授業なので、
高い向学心とか関心とかがあるわけでもない。
始業のベルがなっても、なかなか話し声も止まらないし、
教室の後方から動かない学生もいるようだった。
僕はいつものように、
僕達のことを、少しでも知って欲しい、
一人でも知って欲しい、
それだけの思いを抱えて、教壇に登った。
未来への種蒔きだと思っている。
当然なのだが、僕には、話を聞いてくれている学生達の顔は見えない。
目の前には、いつもと変わらない灰色一色の世界があるだけだ。
僕は話し始めた。
僕の声が、マイクを通して、教室に流れ始めた。
学生達は、僕を見つめた。
僕の一言一句に耳を傾けた。
いつしか、教室には静寂があった。
真面目そうな学生も、成績の悪い学生も、
ヤンキーの男子学生も、化粧の濃い女子学生も、
それぞれが、それぞれの思いで、
授業に参加してくれた。
教室に、人間同士の絆が生まれた。
やさしさが漂った。
授業が終わって、教室を出る学生達が、
「ありがとうございました。」
声をかけてくれた。
「こちらこそ」
僕も、感謝を返した。
同行してくれた友人が、帰りの電車の中で、
学生達のレポートを読んでくれた。
授業の最後の短い時間だったのに、
それぞれの言葉での、たくさんのエールが並んでいた。
「白杖の人を見かけたら、声をかけます。」
「私にできることから実践します。」
「正しく知ることが大切だと学びました。」
「今よりも、いい社会を造ります。」
共に生きていく社会をイメージしてくれていた。
若者達のメッセージを受け止めながら、
ほんの少し、未来の輝きを感じるような気がした。
今時の若者達、結構いいですよ。
少なくとも、僕が学生の時よりは、素敵です。
(2013年7月3日)
さくらんぼ
2004年の暮れに「風になってください」が刊行されたのだから、
彼女と会ったのは、2005年くらいだろうか。
名古屋で眼科医として仕事をしていた彼女は、
偶然、僕の本を読んでくださったらしい。
何かのきっかけで、京都で彼女と会い、一緒に歩いた。
失明と向かい合う患者さん、
その患者さんと向かい合う医者、
それぞれに越えていかなければならないものがあったのだろう。
交じあわせた少ない言葉の中から、
彼女が医者という立場で葛藤されたことが伺われた。
見える彼女と、見えない僕と、
見つめる未来は同じだなと感じた。
その時から、毎年この季節になると、
さくらんぼが届くようになった。
気持ちだけで十分うれしいことは告げてあるのだけれど、
静かな彼女の、彼女なりのエールなのだろう。
届いたばかりのさくらんぼを、口に含んだ。
甘酸っぱい味がした。
幸せの味だと思った。
医療はパーフェクトではない。
治るとか治らないということを、
いいとか悪いとか言うことはできない。
ただ、もう眼科に通う必要のなくなった僕達に、
思いを寄せてくださる眼科医がおられることは、
やっぱりうれしい。
先日、京都市内の書店で、
「風になってください2」の出版記念講演会があったが、
会場に、地元の眼科医が来てくださっていたのを、後で知った。
そっと聞いて、そっと帰られたらしい。
人間同士のやさしさの先に、きっと医療や福祉や教育というものがあるのだろう。
僕の目の病気は治らずに、見えなくなってしまったけれど、
僕の目に関わってくださったたくさんの医療関係者に、心から感謝したい。
(2013年6月30日)
視覚障害リハビリテーション研究発表大会
新潟市の会場は、熱気に満ちていた。
大学の研究者、眼科や内科のドクター、視能訓練士、歩行訓練士、
相談支援の専門家、盲学校の先生方、機器の開発者など、
会場には全国から400人を超える人達が集まった。
目が見えない人達、見えにくい人達の未来に、
それぞれの立場での思いが寄せられた。
この専門家の皆さんのお陰で、僕も、失明からの再スタートがきれたのだ。
そして、歩き始めた僕に、
見える人達がたくさんのエールをくださる社会が存在している。
見えない者の一人として、
心からありがたいと思う。
新潟から帰り着いたら、
僕が訓練を受けた施設で、
爆撃機のエンジン音のレコードが見つかったという話を聞いた。
戦時中、見えない先輩達が、
エンジン音で敵機を判別する練習をしたのだそうだ。
悲しい時代を乗り越えて、
今、笑顔で歩ける社会があるのだ。
でも、まだまだ、日本中の仲間が笑顔になったわけではない。
来年の視覚障害リハビリテーション研究発表大会は、
7月19日と20日、京都で開催されることになった。
リハビリを受けた者の一人として、
感謝の思いで、大会長を引き受けた。
今、日本のどこかで、涙をこぼしている仲間に、
何かをプレゼントできるイベントにしたいと、心から願う。
(2013年6月26日)
飛行機
10年ぶりくらいに飛行機に乗った。
見えてる頃は、窓から雲を見たり機内で週刊誌を読んだりして
それなりに、飛行機の旅も楽しんでいた。
ところが、見えなくなってから最初に乗った飛行機は、ただ気圧と振動との戦い
だった。とても怖かった。
それ以来、少々時間がかかっても、列車を選択してきた。
今回は、仕方なくだった。
飛行機でなければ、新潟市でのイベントに間に合わないのだ。
天候不順で、決して快適なフライトではなかった。
僕はただあきらめの境地の世界だった。
一緒に搭乗した友人が、時々、窓から見える景色を届けてくれた。
新潟の上空にさしかかった時、
「さすが新潟ですね。田んぼが見事な碁盤の目のようです。緑が生き生きとして、
米どころです。」
ひきつっていた僕の顔に、やっと笑みがこぼれた。
子供の頃、毎日見ていた、田植えの後の
豊かな緑を思い出した。
映像ってやさしいよね。
でもやっぱり、僕は臆病者です。
今後もできるだけ、列車にします。
(2013年6月21日)
半月
京都ライトハウスの中途失明者生活訓練を終了した人達の同窓会に参加した。
「風になってください2」をボランティアの方々が朗読してくださり、
それを聞いて、感想や共感の声が、仲間から届けられた。
僕の日常が、僕だけのものではないこと、
僕のさみしさが、僕だけのものではないこと、
僕の喜びが、僕だけのものではないこと、
また教えてもらったような気になった。
ひょっとしたら、たくさんの仲間との関わりの中で、
僕は、書かせていただいているのかもしれないとさえ思った。
そして、とても光栄なことだと思った。
僕達は目は見えなくても、
それぞれが、それぞれの人生を、自分らしく生きていくことが、
僕達の使命なんだと確認した。
同窓会を終えて、さわさわへ向かった。
結局、帰りはまた夜になった。
桂から、僕は、バスをあきらめて、タクシーに乗車した。
乗り込んだ瞬間、僕は身体も気持ちも座席にころがした。
ちょっと疲れてるなと自覚した。
スケジュールからすれば無理もない。
運転手さんは、とても丁寧な感じで、
車が左右にカーブする時、交差点を渡る時、
わざわざ口頭で予告してくださった。
通り名までも伝えてくださった。
僕は小さな声で、相槌だけうっていた。
ひょっとしたら、僕の表情など、観察しておられたのかもしれない。
タクシーが、団地に向かう急な上り坂を走り始めた時、
運転手さんは、安全などとは無関係なことを元気な声で説明してくださった。
「まっぷたつに割ったような、大きなきれいな半月が窓いっぱいに映っています。」
僕の身体は、勝手に起き上がり、
前方の窓ガラスを見つめた。
「綺麗ですか?」
僕は尋ねた。
「とっても綺麗ですよ。」
運転手さんは、また元気な声で答えてくださった。
タクシーが団地に着いて、
清算を済ませて降りる際、
「月、ありがとうございました。」
僕はお礼を言った。
「頑張ってくださいね。」
運転手さんは笑った。
僕をご存知なのかなと、一瞬思ったが、
そんなことはどうでもいいことだと気づいて、
僕は深く頭を下げた。
明日は、中学校で5時間の授業が待っている。
その後、何かの打ち合わせも入っていたかな。
僕は、僕の使命、しっかりと頑張らなくちゃ。
(2013年6月16日)
お知らせ 2件
HPを覗いてくださって、ありがとうございます。
見える人も、見えない人も、見えにくい人も、
皆が参加しやすい社会に向かって、
未来を見つめての、ささやかな発信です。
そして、それを、受け止めてくださる人達がおられる、
つまり、読んでくださる人達がおられる、
とてもうれしい事実です。
いつも感謝しています。
その中で、時々、メッセージをくださる方がおられます。
HPのお問い合わせホームからメールをくださいます。
僕は、ほとんど返信をしているつもりですが、
届いていない方がおられるということが発覚しました。
返信がなかった方は、不快な思いをされたかもしれません。
これは、僕が返信していないのではなくて、
相手側が受信できていないということらしいです。
きっと、僕からのメールのアドレスが、
その方にとっては未登録のものなので、
受信拒否になってしまうのだろうと想像します。
もし、これまでに、返信がなかった方がおられたら、
お手数をかけますが、
再度メールください。
そして、そこに、連絡先電話番号も併記してくだされば、
対応できると思います。
それから、ついでにもうひとつ、
「さくらさく」を読んで、
フィリピンの子供達の支援に興味を持ってくださった方がおられるようです。
リンクの09番に追懐しておきましたので、
参考にしてください。
HPを始めて10ヶ月、延べ5万人を超える人達が見てくださいました。
僕にとっては、とても暖かなエールです。
これからも、日々感じたことを、そのままに発信していきます。
また、気が向いた時、覗いてください。
(2013年6月11日)
塾帰りの少年
いつもの地元の駅に着いたのは、
21時を過ぎていた。
僕は、慎重に階段を探して、
白杖で確認しながら上り始めた。
「お手伝いしましょうか?」
階段の途中、右側から、少年の声がした。
階段はほぼ上りきる手前くらいだったし、
慣れている駅だから、改札口までの経路も判っていた。
もしかして、声の主が大人だったら、サポートを辞退していたかもしれない。
僕は、勇気を出して声をかけてくれたであろう少年に、
向かい合いたいと、とっさに判断した。
「じゃあ、改札口までお願いします。」
僕は、少年の肘を持った。
少年は、学校名を告げ、去年福祉授業で、
僕の話を聞いたと説明した。
塾の帰りで遅い時間だということや、
駅には、母親が迎えに来てくれることなどを、
改札口までの短時間で説明した。
敬語の使い方や、無駄のない言葉、小学生とは思えない大人びた感じだった。
改札口に着いた時、僕は胸ポケットから、ありがとうカードを取り出して、
少年に渡した。
「ありがとうございます。」
少年は、しっかりと頭を下げながら、
これまた、ちょっと大人びた感じの挨拶をした。
僕が前方に向き直って、歩き始めた瞬間、
いかにも、我慢しきれずにこぼれてしまったような、
ちょっとうめき声にも似たような、小さな声が聞こえた。
「よっしゃぁ、二枚目!」
少年は、よっぽどうれしかったのだろう。
僕は振り返って、
「3枚で、ポケットティッシュと交換だからね。
気をつけて帰るんだよ。」
笑いながら、声をかけた。
「はい。」
はにかんだ少年の、照れくさそうな声が聞こえた。
いつの時代も、子供っていいよなって思った。
(2013年6月12日)
風鈴
風鈴の音を、彼女が教えてくれた。
耳を澄ますと、確かに聞こえた。
ガラス窓の向こう側で、夏の始まりを主張していた。
目が見えなくなると、耳がよくなるのかと尋ねられることがあるが、
そんなことはあり得ない。
高齢になると、老眼になり、耳も遠くなる人なんてたくさんおられる。
しいて言えば、
見えなくなったら、見えてる頃よりも、
しっかり聞こうという感じになっているのだろう。
もちろん、これも無意識のなかでのことだ。
だからきっと、単独で移動している時の方が、
いろいろな音や香りに敏感になっているのかもしれない。
今日は、友人と一緒、つまりは安心した状況なのだから、
耳も鼻も、のんびりとくつろいでいた。
教えてもらわなかったら、
風鈴にも気づかなかったかもしれない。
窓ガラスに映る景色が、まるで一枚の絵のようだと、
彼女がつぶやく。
桜の木の葉の緑色が、夏空に映えて、
しかも強い力の緑色だと、
一枚の絵を、僕に伝える。
彼女とは、そんなに何度も会ったわけでもないし、
交わした言葉も、特別多いわけでもない。
それでも、僕達の間に、穏やかな安らぎの空気が流れる。
昔からの友人みたいな感じだ。
きっと、同じ未来を見つめる視線が、
信頼につながったのだろう。
僕がご馳走するというのを振り切って、
彼女がレジに向かう。
そんなこと、どっちでもいいと、
風鈴がつぶやく。
ごちそうさま。
(2013年6月8日)
一緒に生きる
「ハーイ、こっちですよ、いい笑顔ですよ。パチリ」
カメラマンの声のする方に、
僕達は顔を向けた。
町家カフェさわさわの玄関、
梅雨の中休みの晴天の下、
見えない僕と、見えない彼女の記念写真だ。
僕が町家カフェさわさわへ行けるのは、だいたい週に一回程度、
それもランダムだ。
尋ねて来られたことを、後で聞く場合が多い。
今日の彼女も、電車で2時間以上かかる地域から来てくださった。
まさか会えるとは思っていなかったと、何度も握手された。
喜びがはじけていた。
僕達は、生まれも育ちも性別も世代も、何もかもが違う。
共通しているのは、視覚障害だということだけだ。
僕の著書の朗読テープを聞いて、
同じだねとおっしゃってくださる。
光栄なことだと思う。
一緒に笑顔になれる仲間がいることを、心から幸せだと思う。
最後に、彼女達をサポートされていたガイドさんとも記念撮影した。
「帰ったら、仏壇の主人に報告します。」
小さな声で、控えめな言葉を残された。
彼女のご主人は視覚障害だった。
視覚障害者のガイドヘルパーという仕事をしながら、
いつも、天国のご主人と会話しておられるのだろう。
見えなくなったおかげで、
たくさんの素敵な人生と出会う。
お陰という言い回しは、不謹慎なのかもしれないが、
人間同士の交わりは、僕の人生を何倍も豊かにしてくれているのは間違いない。
そうそう、昨日、高校生が書いてくれた点字の手紙には、
「まだ死ねへんから、いっしょに生きていこうね。」
と記してあった。
たくさんの傷を持った、多感な17歳の少女ならではの表現だ。
一緒に、そう、一緒に、生きていこうね。
(2013年6月6日)