盲ろう者向け通訳・介助員養成講座

水曜日は城陽市で開催された京都府盲ろう者向け通訳・介助員養成講座に出かけた。
木曜日は京都市で開催された盲ろう者向け通訳・介助員養成講座だった。
社会には数は少ないけれど、目と耳の重複障害の方がおられる。
全盲ろう、全盲難聴、弱視ろう、弱視難聴の方々だ。
総称して盲ろうと呼ぶことが多い。
どの程度の見え方なのか、聞こえ方なのか、どちらが最初に障害となったのかいろい
ろだ。
それによって、お互いの手話を触る触手話、手の指を点字の6個の点としてサインを
送る指点字、あるいは掌に文字を書く、耳元で大きな声でゆっくり話すなどコミュニ
ケーション手段はいろいろだ。
僕はこの講座では視覚障害を伝える科目を担当している。
講座の目的などを考えるとつい真剣になってしまう。
僕の講義が少しでも受講生の学びにつながればうれしい。
ささやかかもしれないけれど、僕自身が盲ろうの人の力になれるということになるの
だ。
まさにやりがいのある仕事のひとつとなっている。
だいたいがマイナーな世界なので受講される人は少ない。
それでも毎年集ってくださる。
僕はいつも不思議な空気を感じながら講義をしている。
人間の愛が生み出す空気だ。
誰かの力になりたいという純粋な思いだけがエネルギーとなる。
僕はいつも最後に感謝を伝える。
受講してくださったことへの感謝を伝える。
見えない聞こえない世界、僕には想像もできない。
想像したくないのかもしれない。
でもそこに、寄り添ってくれる人を感じたら、それはなんとなく分かるような気がす
る。
(2024年7月20日)

休日

三連休は僕もお休みだった。
天候はもうひとつだったが有意義な三日間だった。
土曜日は畑仕事をした。
キュウリがお化けみたいに大きくなっていたのに驚いた。
草を抜いたり、ミニトマトなどに肥料を与えたりした。
雨がきつくなった時間はDVDで映画鑑賞をした。
副音声付の映画なので僕も利用できるのだ。
音響や臨場感などは映画館みたいな訳にはいかないが一応楽しめる。
日曜日と月曜日は視覚障害の仲間とランチに出かけた。
ワイワイ言いながらの豊かな時間だ。
仲間とのコミュニケーション、そこにはいつも命の煌めきを感じる。
それぞれの人生の大切さを実感するし、どう生きていくのかを教えてもらっている。
社会に関わることの意味を考える。
月曜日の帰り道、久しぶりに祇園祭宵山の四条通を歩いた。
遠回りだったがガイドさんにお願いしたのだ。
人波を歩きながらコンチキチンの音色が聞こえてきた。
懐かしさと一緒に画像が蘇った。
セピア色なのに驚いた。
それくらいの時が流れたということなのだろう。
もう見ることはないとちゃんと理解できている。
無茶も言わない。
でもただ素直に、もう一回見たいなと思ってしまう。
穏やかな気持ちで思ってしまう。
いい休日だった。
(2024年7月16日)

いつかどこかで

木曜日はだいたい午前も午後も用事があった。
ところが7月に入っての2回の木曜日、午後の大学の講義だけが用事だった。
15時15分からの90分の講義のために片道90分かけての出勤となったのだ。
ふと我儘に気づいた。
午前も午後も用事があれば忙しいと思っていたくせに、いざ午後だけの用事となると
出かけるのに何かしらのパワーが要るのだ。
よいしょ、どっこらしょっと言う感じなのだ。
しかも身体も重い。
ひょっとしたら身体は午前中でお休みモードになっているのかもしれない。
それでも休む訳にはいかないので出かけた。
自宅近くのバス停から比叡山坂本駅までのバスは座れた。
比叡山坂本駅から山科駅まで、山科駅から烏丸御池駅まで、烏丸御池駅から竹田駅ま
で、約1時間やっぱりずっと立ったままだった。
慣れている日常なのだがしんどいなと思ってしまった。
竹田駅からのバスは始発で座れる確率は高いのだがダメだった。
僕の前に待っておられた高齢者の集団の後に乗車したのでどうしようもなかった。
いや、待っていたのは僕の方が先かもしれなかったのだが、勢いに負けてしまったの
だ。
僕は仕方なく吊革を持って立っていた。
僕が降りるひとつ手前のバス停で乗車してこられた方が声をかけてくださった。
「前の席、空いてますけど座りませんか?」
僕は次のバス停で降りるのでと断りながらも感謝は伝えた。
そしてありがとうカードを渡した。
彼女はありがとうカードの僕の名前に気づいた。
「松永先生ですか?もうだいぶ前ですけどYMCAの専門学校でお世話になった者です。
お久しぶりでしかも横顔だったので先生と気づきませんでした。すみません。」
それからすぐにバスは僕の降りるバス停に停車した。
「僕を憶えていなくても、声をかけることを憶えていてくれてとてもうれしかったで
す。ありがとうございました。」
僕はそれだけを伝えてバスを降りた。
結局ずっと座れないでの出勤だったのだが心はとても爽やかだった。
疲労感も消えていた。
教室に入ってすぐに、僕は学生達にその話をした。
「君達ともいつかどこかで、そんな風に再会できたらいいね。」
(2024年7月12日)

人間の社会

見える人、見えない人、見えにくい人、皆が笑顔で参加できる社会、それが目標だ。
そこに向かって歩き続けること、それが僕のライフワークだ。
小学校、中学校、高校、大人の団体、いろいろ声をかけてくださる。
障害を正しく理解してもらう機会、僕は感謝して喜んで出かける。
可能な限りどこにでも出かける。
今回の小学校、10数年ぶりだった。
その当時の先生方はもういらっしゃらなかった。
どうして僕に声をかけてくださったのか尋ねたら、一人の先生の提案だったらしい。
数年前、別の小学校で勤務されておられた時に話を聞いてくださった先生だった。
僕のことを憶えていてくださって、僕の話を子供達に聞かせたいと思ってくださった
のだ。
僕はうれしくて握手を求めた。
感謝をお伝えした。
中間休みを挟んでの2時限の講演時間、あっという間に流れていった。
子供達は僕の話を真剣に聞いてくれた。
僕が投げかけたいろいろな質問に一生懸命答えてくれた。
120の未来が僕の前で微笑んだ。
講演を終えて玄関を出ようとした時だった。
少女が近づいてきた。
「松永さん、握手してください。」
その声は子供の声ではなく一人の人間の声だった。
僕は少女と握手をした。
お互いの手をギュッと握った。
少女の手がありがとうございますと囁いていた。
頑張ってくださいねとエールを送っていた。
僕は口に出した。
「ありがとう。」
僕と少女は顔を見合わせて微笑んだ。
「10歳という年齢は大人に向かって成長が始まる時だと思います。」
朝の挨拶の時に懇談してくださった校長先生の言葉がそのまま現実となっていた。
豊かな時間だった。
少しずつかもしれない。
ささやかかもしれない。
でもきっと目標に近づいている。
確かに近づいている。
帰りの電車はいつものように座れなかった。
残念だけどやっぱり立ったままだった。
地元の駅に着いて改札口を通り抜けてバスターミナルに向かおうとした時だった。
バスのエンジン音が聞こえた。
白杖の僕では間に合わない。
付いてないなとあきらめかけた時だった。
「待っていますからゆっくりきてください。」
マイクでの放送が聞こえた。
僕を見つけたバスの運転手さんの声だった。
僕はペコリと頭を下げてバスに向かった。
周囲に気をつけながらゆっくりと一歩ずつバスに向かった。
「君達の住む人間の社会にはやさしい人がいっぱいいるんだよ。」
今朝子供達に伝えた言葉を思い出した。
人間の社会、素敵です。
(2024年7月7日)

81歳

最寄りのJRの駅までバスを利用している。
平日の朝のバスはそれなりに込んでいる。
学生やサラリーマンの人達が動く時間だ。
しかも皆急いでいる。
だから僕は最後に降りるようにしている。
降りる際に前後の乗客の足に白杖が絡まったりしないためだ。
今朝も座席に座ったまま他の乗客が降りていく足音を聞いていた。
「皆降りていかれましたよ。」
隣の男性が声をかけてくださった。
僕はお礼を言ってバスを降りた。
「段さ、危ないですよ。」
彼は僕の後ろから降車を見てくださっているようだった。
その流れで僕は彼の肘を借りることにした。
込んでいる駅のホームはいつも怖い。
肘を持たせてもらうだけで恐怖感はほとんどなくなる。
有難いことだ。
電車を待つ間の立ち話で彼が81歳だと分かった。
「声も動きもお元気ですね。」
僕は感謝と一緒に伝えた。
「それがね、片目は緑内障でもう見えない。他にも身体はあちこちいろいろあってね
。」
詳しくはおっしゃらなかったけれど、療養中なのは理解できた。
「でもね、貴方の目と比べれば・・・。」
そこから後は言葉を濁された。
身体のどこであっても、病気とか怪我とか大変だ。
そこにそんなに違いはないと思っている。
でも僕はそれを言葉にするのは控えた。
言葉にしてもあまり意味がないと思ったからだ。
僕達は一緒に電車に乗った。
彼は僕を空いている座席に誘導してくださった。
山科駅で別れた。
「本当に助かりました。ありがとうございました。」
僕はしっかりと頭を下げてお礼を言った。
ありがとうカードも受け取ってもらった。
これから先の僕の人生、どんなるのかは分からない。
一日でも長く元気でいたいと思う。
でも、それは誰にも分からない。
彼の行動を振り返りながら、どんな風に生きていくのかどんな風に老いていくのか、
それは自分次第なのだと思った。
僕も、困っている人がいたら、寄り添える人でありたい。
(2024年7月3日)

意地悪ばあさん

竹田駅のバスターミナルでバスを待っていた。
突然横から声がした。
「間違ってたらごめんやけど。あんた洛西に住んでた人やなぁ。」
彼女は懐かしい友達に再会したような感じで話をされた。
僕が2年前まで住んでいた京都市西京区洛西ニュータウンの人だった。
年齢はおいくつくらいだろうか、
僕よりはだいぶ年上かもしれない。
見かけなくなったから心配していたとおっしゃった。
僕は2年前に滋賀県に引っ越したことを説明した。
それでも京都市内での仕事などは続けているから今日も竹田まできたことを話した。
「あんたは凄いなぁ。目が見えへんのにそうやって一人で出かけるんやからなぁ。
こんなところまで一人でくるんやから凄いわ。私と同じや。」
僕は笑いながら相槌を打った。
「洛西でもようあんたを見かけたで。」
彼女はどこで見かけたかをいくつも話してくださった。
「ケガせんようにといつも思ってた。元気で会えてほんまにうれしいわ。」
彼女は思うがままに話をされた。
洛西で会った時もそうだったのを思い出した。
ストレートな言葉には遠慮もなかった。
飾らない言葉が並んだ。
ひとつひとつがぬくもりのある言葉だと感じた。
「私だけちゃうで。みんなあんたを見てはったと思うで。」
僕は長年暮らした洛西を久しぶりに思い出した。
若い頃から暮らしてた。
暮らし始めた頃はちゃんと見えてた。
最後に観た景色もきっとそこなのだろう。
たくさんの人に見守られながら生きてきたのだ。
40年くらい暮らしたのだから、第二の故郷だったのは間違いない。
「この世じゃもう最後かもしれん。元気でな。ケガしたらあかんで。」
彼女はそう言って去っていかれた。
僕はふと昔テレビで見た意地悪ばあさんを思い出した。
言動には厳しさがあったがやさしい心の持ち主として記憶している。
「あの世でもまた会いましょうよ。」
僕はまた笑いながら彼女の背中に返した。
あの世では見えるかもしれない。
その時は彼女の顔を見てみたいと思った。
(2024年6月28日)

小舟

電車を降りた場所がたまたまエスカレーターの近くだった。
どうすべきか考える間もなく人波に飲み込まれた。
その人波の中で女性とやりとりがあった。
どういうやりとりをしたか憶えていない。
とにかく僕は彼女の肘を持たせてもらった。
それから彼女の後ろに付いてエスカレーターに乗った。
御礼を伝える僕に彼女が言った。
「私も視覚障害者です。」
その声にも語り口にもやさしさが感じられた。
彼女は弱視の状態なのだろう。
彼女の目がどれくらい見えているのか、どの部分が見えているのか、それは分からな
い。
彼女の目の状態が固定しているのか、僕のような進行性の病気なのかも分からない。
ひょっとしたらケガや脳腫瘍などかもしれない。
間違いないのは全盲の僕よりは見えているということだ。
そして、一般の人よりも見えていないということも事実だ。
人波の中で僕に気づきサポートの声をかけてくれたのはその彼女だった。
それ以外に僕達は会話はしなかった。
改札口まで彼女はサポートしてくれた。
僕達は流れの速い大きな川を下る小舟のようだった。
不思議と安心した。
何か特別な喜びを感じたのは何故だろう。
あれこれ考えようとしたが答えは出そうになかった。
僕は考えることを辞めた。
答えがないこともあっていいと思った。
でも間違いなく本物の幸せだった。
(2024年6月23日)

あじさい

よく降った。
雨上がりの空を感じながら庭を歩いた。
あじさいの花を見たいと思ったのだ。
そんなに広い庭ではないからだいたいの場所は分かっている。
手を前に差し出してそろりそろりと歩く。
迷うことなく到着。
我ながら方向感覚の良さを実感する。
どや顔でつい微笑んでしまう。
あじさいの大きな花をいくつも確認できた。
活き活きと存在している。
僕はその花を包み込むように両方の掌でそっと触る。
ちょっとだけ息をとめて掌の感覚に集中する。
僕のどや顔は消えて、その姿に感謝の笑顔になる。
あじさいはやっぱり雨が好きなんだなと思う。
色はピンクらしい。
手の甲に当たった葉の緑いろも鮮やかに蘇る。
まだ色を覚えていてくれている脳にありがとうと言いたくなる。
それから空を眺める
(2024年6月19日)

フランスでは

JRは信号の不具合などで遅れることが多い。
営業範囲が広いから影響も広域になるのかもしれない。
この予定外が起こると僕は大変だ。
今朝もそれに巻き込まれてしまった。
通勤時間帯だったのでホームで電車を待つ人がどんどん増えていった。
いつもとは違う緊張感があった。
20分遅れの電車はまさにすし詰め状態だった。
僕は白杖を握りしめてその流れに入った。
なんとか乗車したが手すりを探す余裕はなかった。
どこも掴む場所がない状態でずっと立っているのは本当に難しい。
電車がカーブしたり減速したり、幾度も身体が揺れ動いた。
やっとの思いで乗換駅に着いた。
点字ブロックを探して歩き始めた。
次の電車も混んでいるかもしれないと憂鬱を感じながら移動していた。
「お手伝いしましょうか?」
若い男性の声だった。
僕は喜んで彼の肘を持った。
途中までは同じ経路と分かったので、僕達はいろいろな会話をしながら歩いた。
点字ブロックの話になり、それが日本で生まれたものだと僕は説明した。
そしてその恩恵を受けていることも伝えた。
彼はそれが素晴らしいと納得しつつもふと漏らした。
「僕はしばらくフランスで暮らした経験があります。点字ブロックは確かにありませんでした。でも、周囲の人達が手伝うのが普通でした。」
とても意味のある言葉だと僕は感じた。
点字ブロック、転落防護柵、とても有難いしもっと増えて欲しい。
でも、もし周囲の人が普通にサポートしてくださるならなくてもいいのかもしれない
と思った。
「白杖の人を見かけたら、とりあえず声はかけるようにしています。
そして必要だったらお手伝いすることにしています。」
彼の落ち着いた口調が彼の飾らない日常を映し出していた。
自然体だった。
こういう若者が少しずつ増えてきていると感じるのはグローバルな社会になってきて
いるということなのだろう。
未来が楽しみだ。
(2024年6月14日)

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