悲しい小さな心

東京4日目、研修最終日の朝、いやまだ夜と表現した方がいいかもしれない。
午前3時過ぎには目覚める。
最近はこの時刻が珍しくなくなった。
老いを感じるようになったひとつだ。
このリズムだから昼食をすませたくらいから強烈な睡魔に襲われることがある。
もうこれも仕方ないとあきらめている。
枕元のスマートフォンを握ってシリを呼び出す。
「人生の扉を聞きたい。」
竹内まりやの声が羽毛布団のように僕を包む。
しばしのぬくもりを楽しむ。
最近は竹内まりやか桑田佳祐かアイミョンが定番となっている。
しばらく音楽を楽しんだ後、ベッドから起き出してポットに水を入れる。
ホテルは連泊だし、だいたいの構造は頭に入っている。
それから、紙コップに個包装のインスタントコーヒーの粉を入れて、ポットの電源を
入れる。
インスタントコーヒーは持参したいつものイノダコーヒーだ。
お湯が沸くまでの間にトイレと洗面を簡単に済ます。
出かける前にシャワーを浴びるから簡単なのだ。
予定通りに沸騰していたお湯を紙コップに注ぐ。
いつもの香り、おいしさ、9割の満足だ。
後の1割はなんだろうと思い浮かべてふと気づく。
唇が紙より陶器を望んでいるのだ。
次回からマグカップも持参しようと思った。
ホテルの部屋は好きだ。
エアコンと冷蔵庫の微かな音以外はほぼ無音だ。
静けさがいい。
コーヒーを飲みながら、折れかかった気持ちを整える。
昨夜帰り着いて、どこかでお金を落としたことに気づいた。
小銭入れの横に入れておいた千円札がないのだ。
タクシーに乗る前は15枚くらいあったのは憶えている。
たまたまいろいろなお金のやりとりがあって千円札が多くなってしまっていた。
パンパンに膨らんだ小銭入れ、気をつけなくちゃと思っていた。
最終、3千円でタクシーの支払いを済ませたから、12枚くらいはあるはずだった。
ホテルに帰り着いて小銭入れをポケットから出した時、1枚もないことに初めて気づ
いた。
タクシーを降りる時に落としたのかもしれない。
悔しい気持ちをいろいろとなだめる。
1万円札じゃなかったからいいことにしようと自分に言い聞かす。
ケガをしたのではないんだからと自分を慰める。
見えないからと言い訳したいが、目とは関係ないことは十分理解している。
いったりきたりする気持ちをゆっくりと整理する。
あきらめの悪い小さな心が悲しくなる。
抜け出すには先を見るしかない。
研修最終日、しっかりと仕事をしよう。
せっかく集ってくださった皆さんが少しでも満足してくださるように頑張ろう。
それが僕達の未来につながっていく。
それはお金よりずっと大切なことだ。
僕にできることをしよう。
人生、くじけることもあるけれど、楽しいこともまたきっとある。
つい脳裏に浮かびそうになる千円札を頑張って追いやる。
見えてた頃も小市民だったけれど、見えなくなってもかわらない。
よし、シャワーを浴びて出発。
(2024年10月20日)

写真撮影

出版社の担当者は有名なウナギ屋さんに僕を案内してくださった。
原稿のひとつにウナギが好物と書いていたからかもしれない。
そんなご馳走を頂けるだけでも幸せなことだと思った。
腹ごしらえをしてからタクシーで鴨川の河川敷に向かった。
今日の目的は新しい本の表紙の写真撮影だ。
僕はデザイナーから指定された黒のズボンに黒の靴だった。
上着のシャツは2枚用意したが、結局白杖が目立つ黒系統の服となった。
カメラマンはどれだけシャッターを押したのだろう。
百枚以上は撮影したような気がした。
空は秋晴れ、のどかな時間だった。
たった一冊の本のためにたくさんの人がそれぞれの立場で協力してくださっているの
を実感した。
光栄なことだと思った。
時々表情が硬くなるらしい僕に関係者はそっと声をかけた。
「松永さん、さっきのウナギを思い出してください。」
どうやら魔法の言葉になったらしかった。
撮影中に幾度か言われた。
自分で見ることはない写真、
でもなんとなく楽しみだ。
(2024年10月16日)

秋風

主催は更生保護女性会と伺っていた。
当日の会場には、食生活改善推進委員の方、女性団体連絡推進協議会の方、民生児童
委員の方、いろいろな立場の方が来てくださっていた。
祁答院や霧島などずいぶんと遠方からも来てくださっていた。
参加者数も僕の予想より多かった。
僕は感謝を噛みしめながら話をした。
心を込めて、そしてしっかりと未来を見つめながら話をした。
講演が終わって、ふと思った。
滋賀県大津市で暮らす無名の僕がそんなに多くの参加者を集められるわけがない。
関係者に尋ねてみた。
やはりいろいろと動いてくださった人がおられることがわかった。
彼女は手作りのチラシまで作ってあちこちに声をかけてくださったようだった。
以前、僕の話を聞いてくださった彼女は、その話をまた別のお知り合いにも聞いて欲
しいと思ってくださったのだ。
「理解は共感につながります。
共感は力となります。
力は未来を創造すると僕は信じています。」
最初に出版した著書の後書きに僕はそう書いた。
そして、その種を運ぶ風になってくださいと願いを書いた。
その本が出版されてから20年の歳月が流れた。
ベストセラーにはならなかったがロングセラーとなった。
11刷を迎えた本は今でも少しずつ社会に運ばれていっているようだ。
そして、講演回数も千回くらいにはなったかもしれない。
そこには風になってくださったたくさんの人達がおられるのだ。
未来がどれだけ創造されたのか、それはそんなに胸を張れる答えは出ていない。
まだまだ僕の努力不足もあるのだと思う。
だからもうちょっとは頑張らなくちゃ。
別れ際に彼女はハロウィンの袋に入ったお菓子を僕の手にそっと載せてくださった。
頑張ってくださったのに、頑張ったよとはおっしゃらなかった。
さりげなく、僕もそうありたい。
もうすぐ、秋風がそよぎ始める。
(2024年10月10日)

ともだち

薩摩川内市に甑島(こしきじま)という島がある。
川内港から高速船で50分、串木野港からフェリーだと75分だ。
僕は友人の車に同乗させてもらったのでフェリーを利用した。
数年前に他界した親友の西君のお墓参りが目的だった。
西君はこの甑島出身で高校時代に知り合った。
卒業後、しばらく音信が取れなかったが、京都市内でばったりと再会した。
思い出せば、不思議な縁だ。
僕は学生、西君は当時パン屋さんで働いていた。
夜盲で少し不便があった僕と会社の寮の居心地の悪さがあった西君、
当たり前のようにオンボロアパートで一緒に暮らすようになった。
西君は不思議な世界を持っていた。
僕より1歳年上ということもありいろいろと話を聞いてくれた。
「汚れちまった悲しみは」
酔っぱらうと中原中也の詩を語った。
二人で旅したヨーロッパでの二か月の思い出は一生の財産となった。
中学生程度の英語力の僕達、リュックサックを背負った放浪は青春のエネルギーの中
で実現したものだった。
大学を卒業した僕は児童福祉の仕事に没頭していった。
西君は新しい職場を求めて東京に向かった。
十数年した頃、突然電話がつながらなくなった。
その時もっと真剣に探すべきだったのかもしれない。
いつかまたつながるだろうと、男同士なんてそんなものだ。
数年前に西君の訃報が届いた。
それからずっと、お墓参りに行きたいと思っていた。
そしてやっと今回実現した。
妹さんや地元の関係者に教えてもらった海辺のお墓に辿り着けた。
川内駅に迎えにきてくれた友人がくれたポロシャツを着てのお墓参りだった。
背中に甑島で有名な鹿子百合がプリントされていた。
友人のさりげないやさしさを背中に感じながらお参りした。
花を供え線香をたむけた。
合掌した瞬間に言葉が紡ぎ出された。
「西君、お世話になりました。ありがとうございました。いつかそっちに行きます。
その時はまた僕のともだちになってください。」
お墓の近くの砂浜に降りた。
少年時代に西君が歩いたと聞いていた砂浜だ。
目前に桜島が聳えて見えた。
「汚れちまった悲しみは」
西君の笑顔が蘇った。
「ありがとう。」
僕は今度は声に出して感謝を伝えた。
帰り際、港に高校時代の同窓生が待っていてくれた。
同窓生と言っても、僕達は同じクラスにはならなかった。
僕はラグビー部で彼はバレー部で話したこともなかった。
だから、お互いの記憶もなかった。
彼は甑島名産のタカエビを準備してくれていた。
僕達は笑顔で握手をかわした。
新しい友人ができたのだと思った。
川内に向かう船の中でふとこれまでの自分の人生を振り返った。
たくさんの友人達に支えられて生きてきたことをあらためて思った。
その事実に心から感謝した。
ともだち、いいものだとしみじみと思った。
(2024年10月6日)

オンライン

9時から10時半、徳島県で開催された同行援護養成研修で話をした。
障害者の心理という科目の担当だった。
当事者と言う立場で思いを伝えることが僕の仕事だ。
やりがいもあるし頑張って取り組んでいる。
18時からは鹿児島県のガイドヘルパーさん達の研修会に参加した。
これもまた、当事者と言う立場でガイドヘルパーさん達への思いを話した。
夜の研修会にも関わらず、多くのガイドヘルパーさん達が参加してくださった。
うれしく感じた。
ちなみにこの二つはどちらもzoomだった。
コロナ騒動の置き土産なのだろう。
視覚障害者の会議や研修などにもオンラインが普及した。
見えないのにちゃんとカメラもオンにしているからちょっと面白い。
オンラインは確かに便利だ。
僕達が苦手とする移動の問題をクリアできるのだ。
でもやっぱり、僕は対面が好きだ。
微妙な空気感は肌で感じるものだ。
それができないのはちょっと淋しい。
電車に乗ってでかけるのも好きなのだと思う。
見える頃は鈍行列車でまさに日本のあちこちを旅した。
僕が足を踏み入れていない都道府県は沖縄県だけだ。
車窓を流れていく風景、飽きもせずに見ていた。
レールと車輪が奏でる音も好きだった。
見えなくなった今でもその感覚は変わっていないのだろう。
オンラインの便利さは否定しない。
でも、遠くまで足を運ぶという幸せ、大切にしたい。
(2024年10月1日)

自由業

見えなくなった頃、履歴書に無職と書くのが辛かった。
いつの頃からか自由業と書くようになった。
職業にありつけるまでの対応策のはずだった。
見えなくなって27年の歳月が流れたが、結局定職には縁がなかった。
それから今日までずっと自由業ということになってしまった。
27年の間に仕事への感覚も変わった。
僕にできること、そして僕自身が大切だと思う事、それが仕事なのだと思うようにな
った。
そこに収入が発生する時もあればない時もある。
障害者団体の活動などはほとんどそこに収入はない。
逆に持ち出しが多い仕事かもしれない。
福祉授業や講演活動の収入は時と場合で変わる。
講演料はいくらかと尋ねられることがあるが、予算の範囲で結構ですと答える。
定例区みたいなものだ。
こんなに頂いていいのだろうかと思うこともあれば、お茶とお菓子を頂いて帰ること
もないわけではない。
まさに、いろいろな意味で自由業なのだろう。
自由業だから気楽と思われることもあるかもしれないが、大変なことだってある。
スケジュール調整などはそのひとつかもしれない。
春は企業や職場の研修会などが多い。
夏休みは暇になる。
秋は小学校などの福祉授業が多い時期となるし、12月などは人権月間ということでい
ろいろある。
そして、同じ時期にいろいろと重なってしまうことも多い。
秋はそういう時期かもしれない。
この数日も忙しかった。
京都、大阪、滋賀と飛び回った。
昨日は午前の枚方市の高校、午後の京都市内の大学、実技の研修もしたせいか歩き回
ることになってしまった。
夕方の山科駅で歩数を確認したら1万6千歩を超えていた。
そして、トラブルがあったらしくて電車はストップしてホームは人で溢れていた。
僕を見かけたらサポートの声をかけてくださる男性が、たまたま僕を見つけてくださ
った。
神様っているなと思った瞬間だった。
僕達は同じ比叡山坂本駅を利用している。
彼はいつものように改札口まで手伝ってくださった。
昨日僕のことを思い出したので驚いたとおっしゃっていた。
電車の中から日が短くなった夕暮れを教えてくださった。
秋はこれから深まっていくのだろう。
こちらでの仕事を数日して、それから鹿児島県に向かう。
鹿児島県薩摩川内市で小学校での福祉授業を3校、看護学校での講義、社会人向け講
演などで一週間程度過ごす。
それから戻っての4日間、京都の大学での講義、一般対象の規模の大きな講演会など
が控えている。
その後、東京に向かう。
この研修の講師は一週間程度となる。
自分でも凄まじいスケジュールだと思う。
でも頑張る。
頑張れる。
どれも僕にとって大切なこと、まさに自由業だ。
(2024年9月27日)

一瞬の笑顔

僕が利用する比叡山坂本駅のホームにつながる階段は一か所だ。
山科方面行の電車の2両目付近にある。
山科駅の階段はこの電車の後方になる。
どれほど後方かは電車によって違う。
4両編成、6両編成、8両編成、12両編成の電車があるからだ。
そしてそれぞれの電車の山科駅での停車位置は違っている。
これをすべて記憶するのは難しい。
少しでもリスクを低くするためにいろいろ考えて利用する。
朝は比叡山坂本駅でホームの移動をするのが望ましい。
朝の山科駅は通勤通学の利用者でラッシュになるからだ。
山科駅でのホーム上での移動距離を少しでも短くするのだ。
逆に山科駅から夕方乗車する場合は、山科駅で移動する。
比叡山坂本駅に着いた後、少しでも早くバス停にたどり着きたいという心理だ。
ただ、この移動もその日のホームの込み具合、天候、自分自身の疲れ具合などで変化
する。
今朝はホームに流れるアナウンスで8両編成の電車と確認した。
少しホーム上を移動しようと思った。
頭の中でいーち、ニー、サーンと数えながら白杖を動かして歩く。
点字ブロックを確認しながら動くのだ。
間違うと線路に落っこちるのだから真剣だ。
55を数えたところで停止した。
55に意味はない。
なんとなく好きな数字で停止する感じだ。
30とか77とかが多いかな。
55で停止したということは220歩の移動ということになる。
停止したところで案内放送に気づく。
「白色の三角印しでお並びください。」
これは僕にはできない。
適当に停止している。
電車が到着してからドアノ開く音の方に動いて乗車するのが通常だ。
僕は慣れているが、他の見える人達からは危険と思われるのだろう。
このタイミングで声をかけてくださる人は時々おられる。
安全度は高くなるのだから有難い。
今朝も同世代くらいの男性が声をかけてくださった。
僕は彼の肘を持たせてもらって乗車した。
乗車後、彼は僕の手を取って手すりを触らせてくださった。
完璧なサポートだった。
僕は笑顔で、そっと、そしてしっかりと感謝を伝えた。
彼は京都駅までということで、僕が先に降りることを確認した。
その後、僕達は無言だった。
電車が山科駅のホームに滑り込んだ。
僕は再度感謝を伝えて動き始めた。
「いい一日になりますように。」
ドアに向かおうとした僕に彼がささやいた。
僕も少し振り返り気味ですかさず返した。
「お互いに。」
僕達は一瞬の笑顔を交わして別れた。
ほとんど誰にも気づかれない朝の一瞬。
笑顔を交わすおじさん二人、いいなと感じた。
階段の場所を知らせる小鳥の鳴き声が聞こえた。
そちらに向かって歩きながら、数分前を思い出して、また一瞬笑顔になった。
(2024年9月22日)

中秋の名月

今夜は中秋の名月と朝からラジオが伝えていた。
少しだけ楽しみにしていた。
夕方になっても気温はなかなか下がらなかった。
21時を過ぎても30度くらいあった。
ちょっと悲しくなった。
虫達の声も少なく感じた。
お月様は地球を見てどう思っておられるのだろう。
人間を賢い生き物と思っておられるのだろうか。
そんなことを考えたらため息が出た。
僕が生きてきた日本には四季があった。
それぞれの季節にそれぞれの楽しみがあった。
僕が見えていた頃、四季が織りなす美しさがあちこちにあった。
それは過去の話なのだろうか。
異常気象という言葉を耳にするのが通常になってしまった。
人間の本当の英知がこれを止めてくれることを願う。
今年は名月と満月がずれているらしい。
明日は気分直しに今日忘れた月見団子でも食べて秋を祝うことにしよう。
お月様にお願いしながら食べよう。
(2024年9月18日)

結婚披露宴

甥っ子の結婚披露宴、僕もお招きを受けた。
子供の頃はおばあちゃんと一緒によく京都を訪れていた。
小学生くらいの頃のはにかんだ少年の笑顔をうっすらと憶えている。
当たり前のことだが、会う度に成長を感じた。
電車が大好きだった少年は高校を卒業して鉄道関係の会社に就職した。
婚約者と一緒に挨拶にきてくれた時には逞しさを感じた。
今朝の天気は晴れ、少しだけ秋を運ぶ風が吹き始めている。
のどかな朝だ。
白いネクタイを着けての披露宴、僕の人生では最後の機会かもしれない。
心をこめて拍手をしよう。
笑顔で記念写真に入ろう。
その空間に存在できることに感謝だ。
けんと君、なおさん、ありがとう。
そして、おめでとう。
(2024年9月13日)

チャレンジ失敗

以前から思っていた。
京都駅を単独で利用できるようになりたい。
京都駅の構造はだいたい頭に入っている。
ただ、利用者の多さが半端じゃない。
1日平均の利用者数が30万人の駅だ。
キャスター付きの旅行バッグを引っ張って移動している観光客もとても多い。
場所によっては修学旅行の学生達の集団にも出会う。
外国人の利用者も多い。
点字ブロックの意味を知らない外国人も多くおられるようだ。
点字ブロックは日本で生まれたもので、世界中で使用されているものではないから仕
方ない。
その中を白杖一本を頼りに動くのは至難の技だ。
分かっているからこそやってみたくなるのかもしれない。
昔からチャレンジ精神だけは旺盛だ。
少しずつできるところから練習した。
湖西線の電車を降りてから電車の後方にひたすら歩く。
このホームには転落防護柵はないから慎重に歩かなければいけない。
一人もぶつからないで動くということはあり得ない。
小鳥の鳴き声放送で地下道への入り口を探す。
階段を降りて点字ブロック沿いに北に向かえば改札の音が聞こえてくる。
京都駅東改札口だ。
このルートは行けるようになった。
地下鉄の乗り換えにはよく利用している。
この逆の動きがまだできない。
3番線の手掛かりになる音を探すのが大変なのだ。
だから駅員さんにサポート依頼をしていた。
そして前回、目が見える友人に単独移動の練習を見守ってもらった。
トイレの放送やエスカレーターの音を頼りに動けばなんとかなりそうだと思った。
チャレンジした。
ホームにつながる階段の前で3番線かなと思案していた。
「何か困っておられますか?」
女性の声だった。
「3番線ホームに行きたいのです。この階段ですか?」
「違います。ここは5番ホームに行く階段です。私が案内しましょう。」
チャレンジは見事失敗していたのだ。
エスカレーターの音を一か所聞き逃したのかもしれない。
彼女は僕に肘を貸してくださった。
駅の関係者か尋ねたら、一般の人だった。
「時間は大丈夫ですか?」
僕は申し訳ないと思って尋ねた。
「大丈夫なので安心してください。」
爽やかな答えだった。
僕は甘えることにした。
エスカレーターがホームに着くタイミングで彼女に尋ねた。
「左側、3番線に電車はいますか?」
始発の電車が既に待機していた。
「発車時刻の案内を読んでください。」
彼女は僕の依頼を的確に処理してくださった。
「あと一分です。なんとか間に合いそうです。先頭車両です。」
なんとか間に合った。
彼女に感謝を伝えてありがとうカードを手渡した。
「貴方がいなかったら、この電車には間に合わなかったです。ありがとうございまし
た。」
それからすぐにドアが閉まった。
結局今日のチャレンジは失敗ということになるのかもしれない。
でも、彼女のサポートとの出会いも含めて成功と思ってしまうのが僕の前向きなとこ
ろなのだろう。
前向き、いや図々しさかな。
この図々しさも僕が単独で動くための大切な部分です。
失敗は成功の基、そう思うのも図々しさかなぁ。
また次回もきっとチャレンジします。
(2024年9月6日)