「この下の部分は白杖の白を目立たすためにわざと赤色にしてあるらしいよ。」
僕は白杖を持ち上げて、下の部分を指差しながら中学生達に説明した。
休み時間になって、一人の男子中学生が僕に近寄ってきた。
そして小さな声でそっと教えてくれた。
「白杖の下の部分は傷だらけで赤色はもうほとんどはげてしまっています。」
僕は驚いた。
この白杖は新品に近いくらいにきれいだと思っていたのだ。
ちなみに、重度視覚障害者の僕は白杖は1割負担で購入できることになっている。
補装具という福祉の制度で2年に一回権利がある。
耐用年数は2年なのだが、昨年駅で人とぶつかって折れてしまったことがあった。
大津市の福祉課に事情を説明したら対応してくださった。
すぐに新しい白杖を持つことができたので日常生活に支障はなかった。
新品は7千円くらいするので買い替えると結構辛い。
京都でも同じことが1年に2度起こってしまったのだが、2回目はなんとなく申し訳なく感じて自費で購入した思い出がある。
昨年買い替えたのだから、まだ2年は経っていないと思う。
ふと、毎日を振り返った。
僕は基本的には白杖を使用しての単独歩行だ。
白杖で道を歩き、階段を上り下りしている。
点字ブロックを確認し、電車やバスにも乗り降りしている。
あらゆる場面で白杖を使う。
駅の点字ブロックは階段に誘導されているのでエスカレーターは滅多に使用しない。
エスカレーターに乗るのも上手なのだが、入り口を探すのにちょっとエネルギーがいるのだ。
結果、見える人よりも多く階段を上り下りしていることになると思う。
階段を上る時、白杖の下の部分を段鼻に当てて動く。
距離、高さを確認しながら、コンコンという音が周囲への注意換気にもなる。
例えば、昨日一日を思い返しても、合計200段くらいは上っている。
電車の乗り換え回数が多かったり、地下街を移動したりしたら、その2,3倍になる
こともある。
それだけの回数、白杖の下の赤い部分は傷ついてすり減っていくのだ。
そう考えると、赤色がなくなっている白杖は僕にとっては勲章みたいなものだ。
男子中学生に教えてもらった後、その部分を手で触ってみた。
ボロボロになっているのが触覚で分かった。
こんなになりながらも頑張ってくれているのだと知ってとても愛おしく感じた。
白杖に感謝をしながら明日も歩こうと思った。
(2024年12月11日)
ボロボロの赤い部分
バトン
東京市ヶ谷の私学会館4階鳳凰の間はほぼ満席だった。
国レベルのセレモニーの会場は静寂に包まれ、重圧な空気が流れていた。
その中で時々先輩の声だけが漏れていた。
声がすぐに止まるということは付き添いの方がストップをかけておられたのだろう。
運営的にはまずいことかもしれなかったが、僕はその度に何かうれしさみたいなもの
を感じていた。
先輩とお会いするのは本当に久しぶりだった。
88歳、全盲で補聴器使用という状態になっておられた。
僕が京都の代表として同行援護の全国の会議に出始めたのは十数年前だった。
先輩はまさにその会議で先輩だった。
いろいろなことを教えてくださったしお叱りを受けたこともあった。
その言葉の端々には強さとやさしさが感じられた。
僕が生まれる前から見えない人間として生きてこられた力みたいなものがあった。
数年後、僕が全国の同行援護の講師としてデビューしたのは愛知県豊田市だった。
先輩は豊田市で同行援護の事業所を運営しておられた。
地域の視覚障害者協会の会長なども歴任しておられた。
先輩がデビューの機会を作ってくださったのだったと思う。
豊田市での研修の最終日、先輩は僕を小料理屋さんに招待してくださった。
地元の食材を使った懐石料理は思いもかけぬご馳走だった。
先輩がとてもうれしそうだったのを憶えている。
その研修会の後しばらくして、先輩は全国の会議から引退された。
それ以来、10年以上の時間が流れていた。
先輩と一緒に活動した時間は決して長くはなかった。
僕のことを憶えていてくださっているだろうか、少し不安を感じつつ挨拶をした。
「京都の松永です。昔いろいろ・・・。」
僕は現在の滋賀県在住ではなく、当時のことを先輩の耳元で話そうとした。
次の言葉を言う間もなく先輩がおっしゃった。
「会えるかもしれないと思ってたよ。大学も頑張ってるか?」
僕は言葉が出なかった。
言葉と涙腺が直結してしまっているのを自覚できていた。
ただ返事だけをして先輩の手を握った。
先輩は力強く僕の手を握り返してくださった。
受け継いだバトン、へなちょこの僕には重すぎて長過ぎて悲しい。
恥ずかしい。
でも、投げ出すわけにはいかない。
次の人に渡すまでは頑張らないとと思う。
そしていつか、こんな風に老いていきたいと思った。
大声で言いそうになった「ありがとうございます。」を僕は飲み込んだ。
きっと聞こえないだろうと思ったからだ。
そして付き添いの方にお願いした。
「僕が心からのありがとうを言っていたとお伝えください。そして益々お元気でとお
伝えください。」
(2024年12月7日)
不似合いのネクタイ姿
きっとまだ暗いのだろう。
6時過ぎには家を出て歩き始めた。
年に数回だけネクタイをする機会がある。
窮屈な感覚が嫌なので好んではしない。
スーツは上下が同じ生地、同じ色だから着やすいという利点がある。
だから、いつもの僕はマオカラーのスーツだ。
スーツでありながらネクタイをしなくてもいい。
人前に出てもあまり失礼にもならない。
僕には有難い服なのだ。
今日はネクタイをしなければいけないのでいつもとは違うスーツだ。
きっと七五三みたいなのだろうと思う。
ネクタイは直前までポッケに入れてある。
会場に入る前にするつもりだ。
今日は「視覚障害者ガイドヘルパーの日」という記念日だ。
その祝賀のイベントが東京で開催されるのだ。
全国の仲間がオンラインでつながる。
それぞれの地域のそれぞれの仲間が思いを語る。
全国から選ばれたガイドヘルパーさん、事業所、同行援護研修の講師の方々の表彰式
などもある。
僕もそれに出席するのだ。
関係者は12時までに会場に到着するようにとの案内がきたので早朝出発となった。
会場に入る前に食事も済ませなければいけない。
よく当事者運動という表現をされるが、結構きついこともある。
こうして東京まで出向くということもそうかもしれない。
日当が出るわけでもないし、特別にいいこともない。
それでも帰りの新幹線の座席には疲労感と充実感と喜びがあるから不思議だ。
誰かの役に立っているのかもしれないという気持ちが支えてくれているのだろう。
僕も一人の当事者としてしっかりと感謝を伝えよう。
同行援護という素晴らしい制度、大切にしなければと思う。
不似合いのネクタイ姿はお許しください。
(2024年12月3日)
ミッション
鹿児島、香川、徳島、島根、広島、和歌山、兵庫、奈良、大阪、京都、滋賀、石川、
愛知、長野、東京。
各地から集った受講生の皆さんは視覚障害福祉のプロの人達だ。
前回の東京会場は東日本の参加者が多かったが、今回の京都会場は西日本の参加者が
中心だった。
9時にスタートして17時に終了の研修が4日間連続で開催された。
初日の夜には参加者の懇親会、3日目の夜には講師陣の反省会もあった。
僕の家から研修会場までは片道2時間近くかかった。
ラッシュ時の移動も応えた。
睡眠時間を確保するのも大変だった。
年に数回開催されるこの研修会、体力的にはいつも過酷だ。
それは僕にとっても受講生の皆さんにとってもそうなのだと思う。
それでも頑張れるのは何故だろう。
それはきっと、僕達講師陣と受講生の皆さんが生み出していく空気感なのだと思う。
受講生同士のつながりもそれに拍車をかけていく。
まさに仕事への情熱だ。
それぞれがそれぞれのミッションを感じながら学んでいくのだ。
受講生の皆さんがまたそれぞれの地元で活躍してくださると思うとうれしくなる。
感謝の思いが湧き出る。
4日間を無事終了した僕は翌日の朝も6時過ぎには家を出た。
小学校で1、2時限目の授業だった。
身体はボロボロだったが気持ちは充実していた。
この活動もまた、僕にとっての大切なミッションなのだ。
ミッションに共通していること、それはどちらも未来に向かっているということだ。
この研修会は、今年度中に京都で後1回、東京で後3回が予定されている。
学校での福祉授業、大人向けの講演なども多くの予定が入っている。
僕は僕のミッションをしっかりとやっていきたい。
(2024年11月28日)
神様が微笑んで
木曜日は大阪府の南部、藤井寺まで出かけた。
電車をいくつも乗り継いでの往復だった。
元々ケチンボなのだろう。
乗り換え回数が多くても安いルートを選んでしまう。
そしてしんどいとボヤくのだからどうしようもない。
ただ、そんな時、神様が微笑んでくださることがあるから不思議だ。
その日、乗り換え12回目の電車だった、
階段を降りかけたタイミングで女性が声をかけてくださった。
僕は有難く肘を借りて座席に誘導してもらった。
その電車はよく利用しているが、座れることは滅多にない。
声をかけてくださる人はほとんどいないということだ。
彼女は僕の横に座っておっしゃった。
「実は、今朝もお見掛けしました。でも、声をかけられなかったんです。」
わざわざおっしゃった。
彼女はそのことを後悔しておられたのだろう。
それがたまたま同じ日の夕方の帰り道で出会ったということだった。
彼女は今度は躊躇なく声をかけてくださったのだ。
そういう彼女、12回の乗り換えで疲れ切った僕、まさに不思議なタイミングだった。
僕は心からの感謝を伝えて電車を降りた。
帰宅してパソコンを開いた。
翌日からのスケジュールを確認した。
他人事みたいに凄いなとだけ思った。
それからメールチェックした。
学生から事務連絡のメールが届いていた。
「応援しています。」
カーソルを動かして、最後の一行を僕は幾度か読んだ。
恥ずかしがりやの彼女にしては精一杯のメッセージだなと感じた。
笑顔になった。
それから先日の彼女を思い出した。
ハロウィンの直前の日の講義の後だった。
僕のところにきた彼女は僕の手に小さな紙包みを載せて教室を出ていった。
帰宅して開けたらハロウィンのお菓子が入っていた。
僕は日ごろは甘いお菓子は好んで食べない。
その日はとても疲れていた。
コーヒーと一緒に食べた甘いお菓子を美味しいと感じた。
その時も思った。
ばっちりのタイミング。
神様が微笑んでくださったのだ。
(2024年11月23日)
柿の木の枝の隙間から
久しぶりに庭仕事をした。
本当に久しぶりだった。
早朝に家を出て夜帰宅という日が続いていたためだ。
それ以前もたまに休日はあったのだが、雨だったり別の用事で庭に出れなかった。
16時くらいに帰宅できた日に玄関のプランターにチューリップの球根を植えたことは
あった。
今年最後のゴーヤの収穫をしたのも夜だった。
しっかりと草抜きをしたのは9月の終わり頃以来だったかもしれない。
予想はしていたが雑草が凄かった。
所々、土が隠れるくらいに生えていた。
ただただその生命力にはいつものように驚いた。
雑草への敬意みたいなものさえ感じた。
柿の木の下は枯れ葉で覆われていた。
見事な枯れ葉のジュータンだった。
草抜きも枯れ葉の掃除も大変なのだが心はうれしくなった。
小さな僕の家の庭にも秋がきてくれたのだ。
僕はわざと枯れ葉の上に座った。
そしてそっと寝転がった。
いくつになっても、時々少年みたいな行動をしてしまうことがある。
もう恥ずかしさも照れくささもない。
僕は僕でいいんだと素直に思う。
空を見上げた。
裸ん坊の柿の木の枝の間から秋空が見えると思った。
じっと見つめた。
少しだけ涙がこぼれた。
自分でも意味不明の涙がこぼれた。
(2024年11月19日)
空
先週の月曜日から昨日の木曜日までの11日間、ずっと外出していた。
小学校、中学校、高校、専門学校、大学、社会人、すべてに関わった。
未来への種蒔、たくさんできた。
そして金曜日の今朝、満足感と疲労感が混在した朝を迎えた。
コーヒーの香りが脳に染みる。
体力は落ちてきているのだろうかとふと考える。
電車で立ったままの状態で睡魔に襲われたりした。
これまでにはなかったことだ。
老いを認めていくことも必要なのかもしれない。
僕は基本的には白杖での単独移動だが、いくつかのサポートも受けた。
ガイドヘルパーさんのお世話にもなった。
たまたまなのだが、この期間に3名の女子大学生も僕のサポートをしてくれた。
3名とも別々の大学で接点はない。
それなのに、3名ともが僕に教えてくれたことがあった。
「水色みたいな空です。」
「この辺りはビルに囲まれているので空が映えます。」
「空、少し高くなりましたよ。」
「空にはうっすらと筋状の雲があります。」
彼女たちは申し合わせたように、僕に空を伝えた。
尋ねたわけでもないのに空を教えようとした。
僕はその度に空を見上げた。
空を見上げた僕を見て、3名ともが微笑んだ。
今朝それに気づいて、不思議だと思った。
秋になったということなのだろう。
今日と明日は久しぶりの連休、のんびりしよう。
音楽でも聞きながら畑仕事もいいな。
空も見てみよう。
連休が終われば、来週はもっとハードなスケジュールだ。
(2024年11月15日)
ワールド
1年ぶりに訪れた中学校、
体育館には150名程度の1年生が待っていた。
12歳、13歳の少年少女達だ。
僕は午後に大切な会議が入っていた。
3,4時限目は100分くらいの時間があるのだが、60分くらいで終了することを了承
して頂いていた。
終了後は担当の先生と体育館から駅に直行する手筈だった。
僕はいつものように生徒達と向かい合った。
心を込めて語りかけた。
講演の後の少しの時間、生徒達からの質問に答えるつもりだった。
質問は次から次に出て止まらなかった。
僕は時間が気になって少し焦っていた。
結局、予定していた電車をあきらめた。
会議に遅刻することを選んだのだ。
生徒達の質問にひとつでも答えたいと思った。
会場の空気は笑って、時々しんみりして、そして真剣に未来を見つめた。
「いつもは授業中によく寝ている生徒達が皆起きていました。真剣に前のめりになっ
て聞いていました。思わぬ生徒が手を挙げていました。」
帰り際、先生は生徒達の様子を教えてくださった。
この種類の感想はよくある。
松永ワールドと表現されている先生方もおられる。
でも、実は、それは僕のワールドではない。
見えない僕が障害について一生懸命に話す。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が参加できる社会について話す。
白杖を握りしめて未来を見つめて話す。
それを受け止めてくれた生徒達が創ってくれるワールドなのだ。
僕自身もそのワールドを感じることはよくあるのだ。
学校を出ようとした瞬間だった。
「松永さーん!」
別の校舎の上の階から少年達の大きな声がした。
僕は振り返って、声の方向を見上げた。
「何年生?」
「2年生でーす。」
昨年話を聞いてくれた生徒達だった。
「ありがとう。」
僕は声に向かって笑顔で手を振った。
大きく手を振った。
少年達も手を振った。
ほんの少しかもしれないけれどワールドは未来に向かう力になっていることを感じた。
(2024年11月9日)
少年からの手紙
少年から届いた手紙は点字で書かれていた。
少年は小学校2年生、全盲だった。
先日伺った小学校にお母さんと一緒にきてくれていた。
4年生対象の講演だったから話の内容は2年生には少し難しかったかもしれない。
それでも一生懸命に話を聞いてくれたのが伝わってきた。
手紙には、大人になったら楽しいことがたくさんありそうだと書かれていた。
そう感じてくれたとすれば、講演会場には豊かな時間が流れていたのかもしれない。
そのことについては、僕はうれしく感じた。
少年にとっては当たり前のことなのだろうが、達者な点字に驚きながら読んだ。
ふと指が止まった。
「まつながさんわ めが みえない だいせんぱいです。」
点字は聞こえる音を文字で現すのが基本だ。
だから、「まつながさんは」ではなく「まつながさんわ」になる。
「だいせんぱい」という文字を僕は幾度か指先で確認した。
そして、恥ずかしい気持ちになった。
これまで出会った同じような少年少女達のことを思い出した。
いろいろな地域で全盲や弱視の子供達と出会った。
今でもつながっている人も複数いる。
子供達が大人になった時に就職に苦労している現実が今でもある。
社会はまだまだ障害を正しく理解してくれているとは思えない。
後輩達のために僕にできることは何だろう。
自らに問い続けてきたのは事実だ。
そして無力を思い知らされてきた。
結局、自問自答の後にたどり着くのはいつも同じだ。
コツコツとメッセージを発信していこう。
ささやかだけど、僕にできることをやり続けよう。
見えなくなってからの25年を超える歳月、僕なりに頑張ってきたつもりだ。
でも、だいせんぱいどころかちゅうせんぱいにもなれなかった。
少年の手紙を読み終えて思った。
せめて、しょうせんぱいくらいにはなりたい。
心の底からそう思った。
(2024年11月4日)
キンモクセイの小瓶
子供の頃、キンモクセイの香りを小瓶に詰めて持ち帰ったことがある。
そんな思い出を話してくれた人がいた。
その話を聞いた時、僕は不思議なやさしさに包まれた。
彼女の小学生時代を知る由もないのだが自然に想像は膨らんだ。
小瓶を持った少女は空に向けて小さな手を動かしたに違いない。
こぼれないようにしっかりと栓をして走って帰ったはずだ。
家に帰り着いて、そっとその栓を開けたのだろう。
想像しただけで笑顔になった。
そんな思い出のある人と出会えたことを幸せだとその時思った。
そして、キンモクセイの香りに出会う度にその話を思い出す。
その人を思い出す。
どこかで元気でいてくださるようにと心から願う。
(2024年10月31日)