人権研修

迎えに来てくださった人権担当の先生の車に僕は乗り込んだ。
先生は以前に別の中学校でお会いしていた。
僕達は数年ぶりの再会を喜んだ。
先生は僕が今日出会う生徒達のことを車内で話された。
少ない言葉数だったが、そこには生徒達への愛情があった。
一人一人を大切に思っておられるのが伝わってきた。
それを聞きながら、僕自身の気持ちが優しくなっていくのを感じた。
体育館には150人程度の生徒達がいた。
僕はいつものように、いやひょっとしたらいつも以上に、心を込めて話をした。
担当の先生の人権への思いが僕に重なっていた。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれる社会を一緒に考えた。
一人一人がそれぞれに豊かな人生を歩んでくれるようにと願った。
終了後、また最寄り駅まで先生に送ってもらった。
先生は定年までの残り時間を教えてくださった。
僕は僕で、こういう活動ができる残り時間を考えた。
できる間はしっかりと未来を見つめてやっていきたいと思った。
車を降りて、僕達は固い握手を交わした。
こういう先生達と出会えたことが、僕の活動の支えのひとつになったことは間違いな
い。
感謝するということ、それは僕にできることを頑張るということだ。
今日話を聞いてくれた生徒達、先生方、またいつか出会えるような気がした。
(2025年2月5日)

スタバのコーヒーカップ

福祉授業の依頼があった小学校は僕が利用する駅からは少し距離があった。
彼は駅から小学校までの送りのボランティアを引き受けてくださった。
帰りも学校から自宅まで送ってくださることになっていた。
車でらくちん、僕にとってはとっても有難いことだった。
朝早めに待ち合わせた僕達は近くのスターバックスコーヒーに立ち寄った。
スタバのコーヒーは基本的には紙コップで提供される。
でも、希望すれば陶器のマグカップにしてもらえるし、別料金もかからない。
彼は紙コップ、僕はマグカップで注文した。
美味しいコーヒーの香りの中で彼が尋ねた。
「マグカップは持ち手があるからひっくり返したりする危険性が少ないからなの?」
どうやら、僕の視覚障害が理由でマグカップを選択していると勘違いされたらしい。
「違う違う。コーヒーを飲む時の唇の感覚が好きだからですよ。」
そして紙コップでもマグカップでも僕はこぼさないと偉そうに笑って付け加えた。
マグカップには一部彫り込んだ部分があるのを指先が発見した。
スタバのマークが彫り込んでデザインされているのだと彼が教えてくださった。
豊かな朝の時間を過ごしてから僕達は小学校に向かった。
福祉授業は講演、サポート体験、質問タイムというメニューだった。
給食を挟んで4時限の長丁場だった。
終了した時には彼の車は既に校門に到着していた。
帰り道にまたスタバのコーヒーを車内で飲みながらという提案を僕は喜んで受けた。
レシートがあればその日の2杯目はリーズナブルという特典も後押しになった。
そして、頑張った後のコーヒー、身体が欲していた。
国道沿いの駐車場のあるスタバで彼はテイクアウトで準備してくださった。
「テイクアウトは紙コップなんだよ。」
彼はそう言いながら、紙コップのコーヒーを車内のホルダーに置いてくださった。
僕はすぐに飲み始めた。
僕の膝に紙袋が乗せられた。
「今朝のと同じ陶器のマグカップが販売されていたんだよ。プレゼントだからね。」
怪訝に思っている僕に彼はうれしそうに説明してくださった。
その様子が高校生みたいで可笑しかった。
僕はありがたく受け取った。
こうして思わぬタイミングで頂くご褒美、やっぱりうれしい。
いい思い出になるなと思った。
(2025年1月31日)

乗り換え

仕事を終えて桂川駅に着いたのは17時くらいだった。
夕方の駅は少し混み始めていた。
僕はホームに着くとアナウンスに耳を傾けた。
「次の電車は京都行きです。」
「次の電車は京都方面、米原行です。」
この二つの放送をしっかりと聞き分けなくてはいけない。
京都行きの電車は京都駅では4番線に入る。
3番線の湖西線に乗り換えるためには階段を上り下りしてホームを移動しなければい
けない。
それはリスクが高い。
米原行は京都駅では2番線に入る。
同じホームの反対側が3番線だから湖西線乗り換えには便利なのだ。
僕は京都行の電車を見送って、次の米原行を待った。
やがて電車接近の警告音が流れ始めた。
僕はゆっくりと息を吸ってそしてゆっくりと吐いた。
白杖を握りなおして気持ちを集中させた。
停車している数十秒の間に乗り込まなくてはいけない。
耳を澄ませてドアの位置を探す、白杖使ってノリ口を確認、流れるように動くのがコ
ツだ。
見えなくなってもう数えきれないくらいやっている作業なのに毎回緊張する。
電車とホームの間には落とし穴が待っているのだ。
電車が到着してドアが開いた瞬間だった。
「一緒に乗りましょうか?」
女性の声だった。
「肘を持たせてください。」
僕は彼女の肘を持たせてもらって乗車した。
彼女は座るかを尋ねてくださったが京都駅までは5分くらいなので入り口の手すりを
掴んで立つことを選んだ。
僕はありがとうカードを渡しながら感謝を伝えた。
京都駅に到着した時、先ほどの女性が乗り換えの手伝いを申し出てくださった。
彼女は京都駅下車ではないとのことだったので、僕は一応辞退した。
それでも彼女は次の電車に乗るから大丈夫と言ってくださった。
同じホームの反対側、そんなに距離はない。
それでも人波を横切っていくのだから見えない僕には大変だ。
僕は彼女に甘えることにした。
彼女は左右に移動しながら人波の河を渡ってくださった。
上手に横切って僕を反対側に停車していた電車に乗せてくださった。
そして座るかと尋ねてくださったが僕は手すりを選んだ。
安全に乗れただけで十分だった。
僕は再度彼女に感謝を伝えた。
それからしばらくして反対側の電車が発車した。
多分彼女は間に合っただろう。
僕はほっとした。
わずか数十秒のことだった。
見も知らぬ人のために人は動くことができる。
人間って素晴らしい生き物だと思う。
そしてそれを感じる時、僕はつくづく幸せ者だと思ってしまう。
僕は手すりを握ったまま、反対側の電車の音に頭を下げた。
(2025年1月26日)

今年度の龍谷大学短期大学部の成績評価を終えた。
それぞれの学生の出席状況、授業態度、そしてレポートの点数などを総合的に検討し
て評価をする。
四年制大学への編入を希望している学生もいて、学生にとっては1点1点が大切だ。
間違いのないように学生達が納得できるようにしっかりと評価しなければいけない。
結構神経を使う仕事だが、そこまでやって、僕の仕事も終了なのだ。
そして、今年度の仕事は僕にとっては最後の仕事だった。
来年度から短期大学部の学生募集がなくなるので僕の担当科目もなくなるのだ。
スタートしたのは2014年だった。
コロナの年は休んだので実質10年働いたということになる。
その間、木曜日の午後のほとんどを龍谷大学の深草キャンパスで過ごした。
キャンパスの空気は好きだった。
講師控室は広くて立派だったがあまり落ち着かなかった。
キャンパス内のカフェは自由な感じでのんびりできた。
コーヒーを飲みながらノートパソコンのキーを叩くのがいつもの時間だった。
流れている空気が若々しくて心地よかった。
教室は21号館の5階にあったのでエレベーターを利用していた。
教室に向かう時はいつも少しの緊張感と喜びがあった。
時には学生達に教えられながら僕も学んでいっていたような気がする。
そしていつも学生達はやさしかった。
続けてこられたのはまさにやりがいだったと思う。
僕にできる社会参加だったのかもしれない。
正門をくぐってキャンパスにお別れした。
たくさんの学生達と多くの時間を共有したはずなのに、僕は誰一人顔を知らない。
我ながら不思議な感じがした。
それでも出会ったのは間違いない事実だ。
それなりの絆も結べたと思う。
出会ってくれた学生達に心から感謝したい。
(2025年1月21日)

黄色のキャリーケース

京都市の企業向け人権啓発講座での講演が終わったのは15時半だった。
改正障害者差別解消法がテーマにあったが、それは僕にはハードルが高過ぎた。
僕はいつも通り、当事者としての思いを語った。
正しい理解が未来につながっていくことを信じて話をした。
集った皆さんがしっかりと受け止めてくださる空気が感じられてうれしかった。
僕は感謝を伝えて九条テルサの会場を後にした。
東京行きの新幹線のチケットは16時過ぎを予約してあった。
京都駅まで徒歩で15分くらいだろうか、僕達は急いだ。
僕はいつもとは反対の右手でサポーターの学生の左の肘を持った。
学生は右手で僕のキャリーケースを引っ張ってくれたのだ。
その状態でスマホのナビを見ながらの移動は学生にとっては結構大変だったと思う。
もう幾度も一緒に歩いている学生との阿吽の呼吸があってのことだった。
僕は京都駅の新幹線改札口で学生と別れた。
右手で白杖を持った僕が左手でキャリーケースを引っ張って移動するのは大変なのは
分かっている。
ホテルへ荷物を送ったり送り返したりの煩雑さを考えて最近この方法を選んだのだ。
ちなみに、点字ブロックと同じような黄色のキャリーケースにした。
キャリーケースを使うようになって、サポーターだけではなく、駅員さん達にも若干
の迷惑をかけてしまっている。
皆さん快く対応してくださるので本当に有難い。
新幹線の中ではノートパソコンを出してすぐに仕事を始めた。
翌日からの4日間の研修の準備をした。
東京に到着するまでの2時間あまりずっと仕事していた。
大塚のホテルに到着してメールチェックをしたら人権啓発講座の関係者からお礼のメ
ールが届いていた。
彼女が小学生の時に僕の講演を聞いた思い出も添えてあった。
もう10年以上前の思い出だ。
しみじみとした喜びが僕の中で膨らんだ。
蒔き続けてきた種はどれほどの数になるだろう。
その中で一粒でも二粒でも発芽してくれれば本望だ。
また明日からも右手に白杖、左手に黄色のキャリーケース、頑張って歩いていこう。
(2025年1月18日)

歌声

大阪の府立高校に関わるようになって17年になる。
特別非常勤講師という立場だ。
家庭科の科目で福祉をテーマに学習を受け持っている。
1年に10日くらいの短い学習期間だが高校生達はどんどん吸収してくれる。
スポンジに水が染み込むみたいにという感じかもしれない。
最初の授業の時は遠くから僕を見ていたのだと思う。
僕が問いかけてもほとんど声は聞こえなかった。
教室の中には奇妙な緊張感が漂っていた。
それはそうだろう。
初めて出会う見えない人なのだ。
それが回を重ねる度に声が聞こえるようになっていった。
若い力は行動力にもつながっていったようだった。
駅で見かけた白杖の人に声をかけることができた。
幾人もの生徒がうれしそうに話してくれた。
ガイドヘルパーの資格をとった生徒もいた。
点字の手紙には僕への感謝の言葉が並んでいた。
高校生達の人生そのものが少し豊かになったことを意味していた。
最後の授業の日、生徒達はサプライズを準備してくれていた。
少し授業を早めに切り上げると生徒達は僕の前に並んだ。
受講しているのはほとんどが女の子だ。
お茶目な女の子は僕の正面の場所を確保したようだった。
「ありがとう”って伝えたくて あなたを見つめるけど
繋がれた右手は 誰よりも優しく ほら この声を受けとめている」
女子高生達の柔らかな歌声が僕に向けられた。
歌声はどんどん大きくなっていった。
教室の中をこだました。
いきものがかりの「ありがとう」という曲らしかった。
最後に幾つかの手は僕と握手した。
お茶目な女の子は代表で僕とハグした。
僕にはもう大昔のこととなってしまった若いエネルギー、キラキラと輝くのを見た。
確かに僕は見た。
彼女達に心からのありがとうを伝えて最後の授業を終えた。
(2025年1月12日)

68歳

僕の心臓が動き出して24836日が経過したらしい。
まさに、雨の日も風の日も、楽しい時間も悲しい時間もずっと動き続けてきたのだ。
朝も昼も夜も、寝ている間も動き続けてきたのだ。
子供の頃根気のない少年だった。
大人になっても努力や継続は苦手だった。
そんな僕なのに、心臓は頑張ってきたのだ。
そう思うと自分の心臓をなんとなく愛おしく感じた。
68歳のお誕生日、お祝い袋に入った1万円が届いた。
3万5千日以上動き続けている心臓を持っている母からだった。
お誕生日の前、何か届けたいと母は電話口で幾度も言った。
僕は何も要らないと言い続けた。
この年齢になって、98歳の母からもらうことに気が引けた。
生きていてくれることだけで幸せだと言いたかったが口にはできなかった。
結局、母はお金を送るという方法を選んだらしかった。
封筒を持って、僕は愕然とした。
「おめでとう」
5文字のひらがなを母が自署してくれていた。
涙が止まらなかった。
僕は悪いことはしていない。
でも、読めない自分が許せなかった。
「母ちゃん、ごめんな。」
僕は幾度も幾度もつぶやいた。
涙はずっと滴り落ちた。
何故かと問われても分からない。
分かろうとする気もない。
68歳、頑張って生きていかなくちゃ。
(2025年1月7日)

箱根駅伝

ダラダラと三が日を過ごす。
ダラダラがなんとも心地よい。
毎年2日と3日は箱根駅伝をラジオで聞いている。
いつの頃からかお正月の恒例行事のひとつとなった。
故郷の親友達が駒澤大学や日本大学の卒業生だから少しは応援しているが絶対ではな
い。
どこの大学でも地力があると前評判の選手が活躍すると凄いなと思う。
区間新を出した選手には拍手を送る。
でも一番応援するのはうまくいかない選手や調子の出ない選手だ。
頑張れ頑張れと気持ちが叫んでいる。
タスキがつながらなくなりそうな場面など、必死で応援してしまう。
ひょっとしたら自分自身の人生へのエールかもしれない。
幾度もくじけそうになりながら、なんとかここまで走ってこれた。
最後尾をヨロヨロと止まりそうになりながらも走ってこれた。
拍手は僕が僕自身にしているのかもしれない。
自分には甘いのかな。
とは言え、もう自分を変えられるような年齢でもない。
僕は僕のままで今年も生きていこう。
新春から感動をくれた若き走者たちに心からありがとう。
(2025年1月4日)

仕事納め

今年の仕事納めはラーメン屋さんだった。
施設で暮らす全盲の女性とラーメン屋さんに出かけたのだ。
彼女は幼少期に光を失ったが、同時に家族とも縁がなくなってしまった。
それで施設で暮らしている。
社会経験は乏しいし、単独歩行もできない。
建物から外に出ることはほとんどない。
この社会にはいろいろな理由で建物の中で人生を送る人達がおられる。
病院であったり施設であったりだ。
社会の目に留まることはないので、その存在さえもあまり知られていない。
でも、実際におられる。
僕はたまたまピアカウンセリングという仕事で出会うことがある。
「夢は何ですか?」
彼女に問いかけた。
僕の問いかけに返ってきたのがラーメン屋さんに行くことだった。
そのくらいの夢なら僕にもお手伝いはできるかもしれない。
ただ、僕だけでは無理だったので、目が見える友人の協力を受けて実現した。
彼女は一杯のアツアツのラーメンをおいしそうに食べた。
今年最後の仕事、収入にはつながらない仕事だった。
僕には結構多い仕事かもしれない。
一緒にラーメンを食べながら、僕自身も幸せを感じていた。
幸せを感じられる仕事をできるのはまさに幸せなことだ。
一年を振り返ると、今年もほとんどこれまでと変わらない量の仕事をした。
27年前に失明した時、僕にできる仕事は何もなかった。
出発は悔しさだったと思う。
少しずつ仕事は増えていった。
僕にできる仕事をこれからもやっていきたい。
幸せを感じながらやっていきたいと思う。

2024年度 活動記録

小学校 14校
嵯峨野、光徳、陵ヶ岡、梅小路、久世西、川岡、修学院第二、松ケ崎、平佐西、川内
、隈之城、下鳥羽、朱雀第七、松陽

中学校 10校
槙島、向島東、洛星、南宇治、洛西、桂川、城陽、梅津、凌風、西小倉

高校 7校
京都海洋、枚方なぎさ、潤徳女子、長尾谷、成城、同志社、春日丘

専門学校・大学 10校
京都福祉専門学校、京都YMCA国際福祉専門学校、京都医健専門学校、大阪医療福祉専
門学校、京都文化医療専門学校、川内看護専門学校、龍谷大学、大谷大学、四天王寺
大学、同志社女子大学

その他
社会人対象の講演
同行援護関係の活動
諸々の執筆活動

(2024年12月31日)

ハミング

4年前に網膜剥離で光を失ったらしい。
鉄工所で働いていた時に焼けた鉄粉が目に入ったのが原因らしかった。
施設にきて良かったことは食と住の心配をしなくていいこと。
箱折りの作業は苦にはならないこと。
食事はおいしく頂いていること。
こちらの質問に彼はすべてきちんと答えてくれた。
医療機関、福祉機関、きっと幾たびも相談の機会を経験してきたのだろう。
そつのない答え方、抑揚のない話しぶりからそれが伺えた。
61歳での人生の転機、静かに受け止めているのだろう。
質問する僕も人生の途中で失明したということも伝えたが、それもほとんど意味はな
いようだった。
どんな質問をしてもそれは無機質であることを僕は感じていた。
「何か聞いてみたい曲がありますか?」
唐突だったが、僕はほとんどの曲を今聞いてもらえると思うと説明した。
「木村弓のいつも何度でも」
彼のリクエストの曲がiPhoneから流れ始めた。
木村弓の澄んだ声が二人きりの古い会議室に広がっていった。
耳慣れた曲だったが、僕は初めて歌詞をしっかりと聞いた。
彼がこの曲を選んだのが少し分かるような気がした。
向かい合った僕達の間に置いたiPhoneから最後のハミングがこぼれていった。
曲が終わると彼はゆっくりと立ち上がり、椅子を片づけて出口に向かった。
出口に向かいながら、振り返って尋ねてくれた。
「貴方のお名前は?」
「松永と言います。」
彼はその後何も言わずに部屋を出ていった。
僕はもう一度曲を聞いた。
今年ももうすぐ終わるのだと思った。
(2024年12月28日)