大阪の府立高校に関わるようになって17年になる。
特別非常勤講師という立場だ。
家庭科の科目で福祉をテーマに学習を受け持っている。
1年に10日くらいの短い学習期間だが高校生達はどんどん吸収してくれる。
スポンジに水が染み込むみたいにという感じかもしれない。
最初の授業の時は遠くから僕を見ていたのだと思う。
僕が問いかけてもほとんど声は聞こえなかった。
教室の中には奇妙な緊張感が漂っていた。
それはそうだろう。
初めて出会う見えない人なのだ。
それが回を重ねる度に声が聞こえるようになっていった。
若い力は行動力にもつながっていったようだった。
駅で見かけた白杖の人に声をかけることができた。
幾人もの生徒がうれしそうに話してくれた。
ガイドヘルパーの資格をとった生徒もいた。
点字の手紙には僕への感謝の言葉が並んでいた。
高校生達の人生そのものが少し豊かになったことを意味していた。
最後の授業の日、生徒達はサプライズを準備してくれていた。
少し授業を早めに切り上げると生徒達は僕の前に並んだ。
受講しているのはほとんどが女の子だ。
お茶目な女の子は僕の正面の場所を確保したようだった。
「ありがとう”って伝えたくて あなたを見つめるけど
繋がれた右手は 誰よりも優しく ほら この声を受けとめている」
女子高生達の柔らかな歌声が僕に向けられた。
歌声はどんどん大きくなっていった。
教室の中をこだました。
いきものがかりの「ありがとう」という曲らしかった。
最後に幾つかの手は僕と握手した。
お茶目な女の子は代表で僕とハグした。
僕にはもう大昔のこととなってしまった若いエネルギー、キラキラと輝くのを見た。
確かに僕は見た。
彼女達に心からのありがとうを伝えて最後の授業を終えた。
(2025年1月12日)
歌声
68歳
僕の心臓が動き出して24836日が経過したらしい。
まさに、雨の日も風の日も、楽しい時間も悲しい時間もずっと動き続けてきたのだ。
朝も昼も夜も、寝ている間も動き続けてきたのだ。
子供の頃根気のない少年だった。
大人になっても努力や継続は苦手だった。
そんな僕なのに、心臓は頑張ってきたのだ。
そう思うと自分の心臓をなんとなく愛おしく感じた。
68歳のお誕生日、お祝い袋に入った1万円が届いた。
3万5千日以上動き続けている心臓を持っている母からだった。
お誕生日の前、何か届けたいと母は電話口で幾度も言った。
僕は何も要らないと言い続けた。
この年齢になって、98歳の母からもらうことに気が引けた。
生きていてくれることだけで幸せだと言いたかったが口にはできなかった。
結局、母はお金を送るという方法を選んだらしかった。
封筒を持って、僕は愕然とした。
「おめでとう」
5文字のひらがなを母が自署してくれていた。
涙が止まらなかった。
僕は悪いことはしていない。
でも、読めない自分が許せなかった。
「母ちゃん、ごめんな。」
僕は幾度も幾度もつぶやいた。
涙はずっと滴り落ちた。
何故かと問われても分からない。
分かろうとする気もない。
68歳、頑張って生きていかなくちゃ。
(2025年1月7日)
箱根駅伝
ダラダラと三が日を過ごす。
ダラダラがなんとも心地よい。
毎年2日と3日は箱根駅伝をラジオで聞いている。
いつの頃からかお正月の恒例行事のひとつとなった。
故郷の親友達が駒澤大学や日本大学の卒業生だから少しは応援しているが絶対ではな
い。
どこの大学でも地力があると前評判の選手が活躍すると凄いなと思う。
区間新を出した選手には拍手を送る。
でも一番応援するのはうまくいかない選手や調子の出ない選手だ。
頑張れ頑張れと気持ちが叫んでいる。
タスキがつながらなくなりそうな場面など、必死で応援してしまう。
ひょっとしたら自分自身の人生へのエールかもしれない。
幾度もくじけそうになりながら、なんとかここまで走ってこれた。
最後尾をヨロヨロと止まりそうになりながらも走ってこれた。
拍手は僕が僕自身にしているのかもしれない。
自分には甘いのかな。
とは言え、もう自分を変えられるような年齢でもない。
僕は僕のままで今年も生きていこう。
新春から感動をくれた若き走者たちに心からありがとう。
(2025年1月4日)
仕事納め
今年の仕事納めはラーメン屋さんだった。
施設で暮らす全盲の女性とラーメン屋さんに出かけたのだ。
彼女は幼少期に光を失ったが、同時に家族とも縁がなくなってしまった。
それで施設で暮らしている。
社会経験は乏しいし、単独歩行もできない。
建物から外に出ることはほとんどない。
この社会にはいろいろな理由で建物の中で人生を送る人達がおられる。
病院であったり施設であったりだ。
社会の目に留まることはないので、その存在さえもあまり知られていない。
でも、実際におられる。
僕はたまたまピアカウンセリングという仕事で出会うことがある。
「夢は何ですか?」
彼女に問いかけた。
僕の問いかけに返ってきたのがラーメン屋さんに行くことだった。
そのくらいの夢なら僕にもお手伝いはできるかもしれない。
ただ、僕だけでは無理だったので、目が見える友人の協力を受けて実現した。
彼女は一杯のアツアツのラーメンをおいしそうに食べた。
今年最後の仕事、収入にはつながらない仕事だった。
僕には結構多い仕事かもしれない。
一緒にラーメンを食べながら、僕自身も幸せを感じていた。
幸せを感じられる仕事をできるのはまさに幸せなことだ。
一年を振り返ると、今年もほとんどこれまでと変わらない量の仕事をした。
27年前に失明した時、僕にできる仕事は何もなかった。
出発は悔しさだったと思う。
少しずつ仕事は増えていった。
僕にできる仕事をこれからもやっていきたい。
幸せを感じながらやっていきたいと思う。
2024年度 活動記録
小学校 14校
嵯峨野、光徳、陵ヶ岡、梅小路、久世西、川岡、修学院第二、松ケ崎、平佐西、川内
、隈之城、下鳥羽、朱雀第七、松陽
中学校 10校
槙島、向島東、洛星、南宇治、洛西、桂川、城陽、梅津、凌風、西小倉
高校 7校
京都海洋、枚方なぎさ、潤徳女子、長尾谷、成城、同志社、春日丘
専門学校・大学 10校
京都福祉専門学校、京都YMCA国際福祉専門学校、京都医健専門学校、大阪医療福祉専
門学校、京都文化医療専門学校、川内看護専門学校、龍谷大学、大谷大学、四天王寺
大学、同志社女子大学
その他
社会人対象の講演
同行援護関係の活動
諸々の執筆活動
(2024年12月31日)
ハミング
4年前に網膜剥離で光を失ったらしい。
鉄工所で働いていた時に焼けた鉄粉が目に入ったのが原因らしかった。
施設にきて良かったことは食と住の心配をしなくていいこと。
箱折りの作業は苦にはならないこと。
食事はおいしく頂いていること。
こちらの質問に彼はすべてきちんと答えてくれた。
医療機関、福祉機関、きっと幾たびも相談の機会を経験してきたのだろう。
そつのない答え方、抑揚のない話しぶりからそれが伺えた。
61歳での人生の転機、静かに受け止めているのだろう。
質問する僕も人生の途中で失明したということも伝えたが、それもほとんど意味はな
いようだった。
どんな質問をしてもそれは無機質であることを僕は感じていた。
「何か聞いてみたい曲がありますか?」
唐突だったが、僕はほとんどの曲を今聞いてもらえると思うと説明した。
「木村弓のいつも何度でも」
彼のリクエストの曲がiPhoneから流れ始めた。
木村弓の澄んだ声が二人きりの古い会議室に広がっていった。
耳慣れた曲だったが、僕は初めて歌詞をしっかりと聞いた。
彼がこの曲を選んだのが少し分かるような気がした。
向かい合った僕達の間に置いたiPhoneから最後のハミングがこぼれていった。
曲が終わると彼はゆっくりと立ち上がり、椅子を片づけて出口に向かった。
出口に向かいながら、振り返って尋ねてくれた。
「貴方のお名前は?」
「松永と言います。」
彼はその後何も言わずに部屋を出ていった。
僕はもう一度曲を聞いた。
今年ももうすぐ終わるのだと思った。
(2024年12月28日)
電話の声
同行援護資質向上研修当事者コースは今年も12月下旬の開催だった。
場所も例年通り、東京高田馬場の日本視覚障害者センターだった。
責任者の僕にとっては毎年恒例の行事となっている。
ホテルはいろいろ変わる。
東京のホテル代が高騰していて大変なのだ。
今回は木場のホテルから会場まで東京メトロで通勤という方法だったが失敗だった。
確かに若干安かったが、ホテルは駅から遠いし、朝の電車の込み様は凄かった。
会場までの往復だけで結構なエネルギーを費やした。
しかも研修だけで4日間、それに参加者の懇親会、講師陣の反省会などもあるのだか
ら
ハードだ。
ホテルでの一人暮らしの毎日も平常と変わらない。
毎朝のイノダコーヒーも寝る前のノートパソコンでのメールチェックも変わらない。
あえて変化を考えると、お風呂がシャワーに変わるくらいかな。
それで無事終了となるのだから体力はあるのだろう。
確かに疲れは感じやすくはなっているが回復できないような状態にはならない。
疲れを癒してくれることもいろいろある。
研修中に東京は初雪のニュースが流れた。
なんとなくうれしかった。
仲間との懇親、盛り上がった。
最終日の翌日、スペイン料理のクリスマスランチもうれしかった。
帰路の新幹線の中で携帯電話が鳴った。
留守電を聞いたら、受講生の男性だった。
僕は新幹線を降りてからかけなおした。
「心がふるえる研修、ありがとうございました。僕も頑張ります。」
彼の誠実な声が身体に染み込むのを感じた。
疲労は溶けていった。
もっと頑張りたいと思った。
(2024年12月24日)
従姉からの手紙
節子ねえちゃんからの手紙が届いた。
節子ねえちゃんは僕の従姉だ。
僕が子供の頃、一番近くに住んでいた従姉だ。
と言っても、僕が少年の頃、節子ねえちゃんはもうお姉さんだった。
記憶にある節子ねえちゃんの顔は綺麗な大人の顔だ。
節子ねえちゃんには弟がいた。
僕はこうじ兄ちゃんと呼んでいた。
こうじ兄ちゃんは僕を可愛がってくれた。
遊んでもらった思い出は数多くある。
よっぽど楽しかったのだろう。
いくつものシーンが蘇る。
セピア色の静かな映像が思い出となっている。
やさしい風景だ。
よく二人乗りした自転車の後ろの席から見ていた風景なのかもしれない。
僕が高校を卒業して東京に出た時、いろいろと世話をしてくれたのもこうじ兄ちゃん
だった。
数年後、体調を壊したということでこうじ兄ちゃんは故郷の病院に入院した。
僕は帰省の際にお見舞いにいった。
京都で学生生活を送っていた僕は、京都での再会をこうじ兄ちゃんと約束した。
こうじ兄ちゃんが何をどこまで知っておられたのかは分からない。
若かった僕は、病院は治療をして元気を取り戻す場所だと信じて疑わなかった。
まだ20歳台だったこうじ兄ちゃんの年齢、病室での笑顔、すべてに悲壮感などはなか
った。
それから1年も経たない内にこうじ兄ちゃんは天国に旅立った。
人の死について、僕が初めて打ちのめされた経験となった。
心の中で生きている。
人は時々そのような表現をすることがある。
あれから半世紀近くの時を超えて、僕はそれを実感している。
「信也、頑張れ。」
こうじ兄ちゃんはきっとそう言ってくれてるだろう。
こうじ兄ちゃんの顔が笑った。
それから、節子ねえちゃんの顔も笑った。
(2024年12月18日)
『あきらめる勇気』のご案内
今日、2024年12月13日、僕の4冊目の本がデビューします。
『あきらめる勇気』 法蔵館 1,540円
3冊目のエッセイ「風になってください2」が出版されたのは2013年でした。
その後、本の執筆からは遠ざかっていました。
このホームページにブログを書くという方法を選んだのです。
10年と言う間、書き続けました。
その数は1,000を超え、アクセス数も160万を超えました。
僕にとっては大成功です。
読んでくださった皆様に心から感謝申し上げます。
ただ、本の一番の目的、見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加で
きる社会にはまだまだ距離があることを感じています。
僕のささやかな本が誰かの手元にあって、どこかの喫茶室にあって、街角の図書館に
あって、。
妄想は膨らみます。
それをまた誰かが読んでくだされば、未来は1センチ近づいてくれるかもしれない。
見えることはあきらめられても、幸せに生きることはあきらめられない僕がいます。
本は願いであり、祈りであるのかもしれません。
一人でも多くの人に届きますように、皆様の力をお貸しください。
(2024年12月13日)
ボロボロの赤い部分
「この下の部分は白杖の白を目立たすためにわざと赤色にしてあるらしいよ。」
僕は白杖を持ち上げて、下の部分を指差しながら中学生達に説明した。
休み時間になって、一人の男子中学生が僕に近寄ってきた。
そして小さな声でそっと教えてくれた。
「白杖の下の部分は傷だらけで赤色はもうほとんどはげてしまっています。」
僕は驚いた。
この白杖は新品に近いくらいにきれいだと思っていたのだ。
ちなみに、重度視覚障害者の僕は白杖は1割負担で購入できることになっている。
補装具という福祉の制度で2年に一回権利がある。
耐用年数は2年なのだが、昨年駅で人とぶつかって折れてしまったことがあった。
大津市の福祉課に事情を説明したら対応してくださった。
すぐに新しい白杖を持つことができたので日常生活に支障はなかった。
新品は7千円くらいするので買い替えると結構辛い。
京都でも同じことが1年に2度起こってしまったのだが、2回目はなんとなく申し訳なく感じて自費で購入した思い出がある。
昨年買い替えたのだから、まだ2年は経っていないと思う。
ふと、毎日を振り返った。
僕は基本的には白杖を使用しての単独歩行だ。
白杖で道を歩き、階段を上り下りしている。
点字ブロックを確認し、電車やバスにも乗り降りしている。
あらゆる場面で白杖を使う。
駅の点字ブロックは階段に誘導されているのでエスカレーターは滅多に使用しない。
エスカレーターに乗るのも上手なのだが、入り口を探すのにちょっとエネルギーがいるのだ。
結果、見える人よりも多く階段を上り下りしていることになると思う。
階段を上る時、白杖の下の部分を段鼻に当てて動く。
距離、高さを確認しながら、コンコンという音が周囲への注意換気にもなる。
例えば、昨日一日を思い返しても、合計200段くらいは上っている。
電車の乗り換え回数が多かったり、地下街を移動したりしたら、その2,3倍になる
こともある。
それだけの回数、白杖の下の赤い部分は傷ついてすり減っていくのだ。
そう考えると、赤色がなくなっている白杖は僕にとっては勲章みたいなものだ。
男子中学生に教えてもらった後、その部分を手で触ってみた。
ボロボロになっているのが触覚で分かった。
こんなになりながらも頑張ってくれているのだと知ってとても愛おしく感じた。
白杖に感謝をしながら明日も歩こうと思った。
(2024年12月11日)
バトン
東京市ヶ谷の私学会館4階鳳凰の間はほぼ満席だった。
国レベルのセレモニーの会場は静寂に包まれ、重圧な空気が流れていた。
その中で時々先輩の声だけが漏れていた。
声がすぐに止まるということは付き添いの方がストップをかけておられたのだろう。
運営的にはまずいことかもしれなかったが、僕はその度に何かうれしさみたいなもの
を感じていた。
先輩とお会いするのは本当に久しぶりだった。
88歳、全盲で補聴器使用という状態になっておられた。
僕が京都の代表として同行援護の全国の会議に出始めたのは十数年前だった。
先輩はまさにその会議で先輩だった。
いろいろなことを教えてくださったしお叱りを受けたこともあった。
その言葉の端々には強さとやさしさが感じられた。
僕が生まれる前から見えない人間として生きてこられた力みたいなものがあった。
数年後、僕が全国の同行援護の講師としてデビューしたのは愛知県豊田市だった。
先輩は豊田市で同行援護の事業所を運営しておられた。
地域の視覚障害者協会の会長なども歴任しておられた。
先輩がデビューの機会を作ってくださったのだったと思う。
豊田市での研修の最終日、先輩は僕を小料理屋さんに招待してくださった。
地元の食材を使った懐石料理は思いもかけぬご馳走だった。
先輩がとてもうれしそうだったのを憶えている。
その研修会の後しばらくして、先輩は全国の会議から引退された。
それ以来、10年以上の時間が流れていた。
先輩と一緒に活動した時間は決して長くはなかった。
僕のことを憶えていてくださっているだろうか、少し不安を感じつつ挨拶をした。
「京都の松永です。昔いろいろ・・・。」
僕は現在の滋賀県在住ではなく、当時のことを先輩の耳元で話そうとした。
次の言葉を言う間もなく先輩がおっしゃった。
「会えるかもしれないと思ってたよ。大学も頑張ってるか?」
僕は言葉が出なかった。
言葉と涙腺が直結してしまっているのを自覚できていた。
ただ返事だけをして先輩の手を握った。
先輩は力強く僕の手を握り返してくださった。
受け継いだバトン、へなちょこの僕には重すぎて長過ぎて悲しい。
恥ずかしい。
でも、投げ出すわけにはいかない。
次の人に渡すまでは頑張らないとと思う。
そしていつか、こんな風に老いていきたいと思った。
大声で言いそうになった「ありがとうございます。」を僕は飲み込んだ。
きっと聞こえないだろうと思ったからだ。
そして付き添いの方にお願いした。
「僕が心からのありがとうを言っていたとお伝えください。そして益々お元気でとお
伝えください。」
(2024年12月7日)