高田馬場の駅の近くの居酒屋さん、そんなに広くはない店内は満員状態となった。
4日間の同行援護の研修、受講生は全国から集ってくださった。
そして初日の希望者の懇親会、多くの人が参加しておられた。
責任者の僕の乾杯の発声が宴のスタートだった。
2時間飲み放題、お酒好きにはいいプランだ。
僕はアルコールは一滴も飲めない。
父も母もそういうタイプだったので遺伝なのだろう。
宴が盛り上がってくると酔っ払いの笑い声が聞こえだす。
楽しそうにうれしそうに酔っぱらっている人には幸せが宿っている。
うらやましくもなる。
でも、僕は身体が受け付けないのだから仕方がない。
もっぱら食べることと話すことで時を過ごす。
障害の害という漢字についてどう思うか、誰かが言い出した。
いろいろな人が私見を述べた。
こういうことに正解なんて存在しない。
それぞれが話、それぞれが耳を傾ける。
それぞれの思いが未来を見つめる。
その輪の中に存在できることをうれしく感じる。
50年ほど前に、見えない人の外出を社会で支援するという制度がスタートした。
最初の制度は、利用できるのは一人暮らしの全盲の人だけ、サポートしてもらえるの
は病院と役所だけというものだった。
理解してくださる人、共感してくださる人、支援してくださる人、その後押しがあっ
て同行援護の制度が誕生したのは14年前だ。
有難いことだ。
でも、まだまだ完成されたものとまでは言えないと僕は思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、そこに向かい
続けなければいけない。
当事者と専門家が手を取り合って進む時、それが一番の力となる。
酔っ払い達の笑顔を感じながら、明日からの講義も頑張ろうと思った。
(2025年3月15日)
居酒屋
幸せのスケジュール
のんびりとした時間が流れている。
3月の僕はスケジュール的にはゆとりがあるのだ。
たまたま今年は月初めに高校の同窓会で鹿児島県に出かけた。
来週は4泊5日の東京での同行援護の研修が入っているが、それ以外は幾つかの仕事
があるだけだ。
休日は久しぶりの仲間と会ったりする予定だ。
毎年、この時期は充電期間となっている。
そして、来年度に向けての予定が少しずつ入ってくる。
後3週間して新年度を迎える時、きっと予定の半分くらいは埋まるのだろう。
もう2026年の予定もいくつか入っているから自分でも可笑しくなる。
当たり前みたいに予定を入れているが、そのためには健康でいなければいけない。
今までやってこれたこと、そして現在を考えると、僕は基本的に丈夫なのだろう。
丈夫に産んでくれた親に感謝だ。
それでも、体力は少しずつ落ちてきている。
聴力の低下も自覚するようになった。
そういう事実とちゃんと向かい合っていかなくちゃと思う。
駅の近くに美味しいヨモギ餅があると知り合いからの情報があった。
ヨモギ餅を買うために出かける予定だ。
ヨモギの香るお餅を頬張れば笑顔になるだろうな。
春の光を浴びたくなるに違いない。
見えなくても、やっぱり光は恋しい。
幸せのスケジュールだ。
(2025年3月9日)
50年目の高校の卒業式
僕の母校、鹿児島県立川内高等学校にはユニークな取り組みがある。
卒業して50年目の先輩が卒業式に列席するというものだ。
68歳、僕は丁度その年齢となり出席した。
220名余りの卒業生、そして約50名の先輩が卒業式の式典に参加していた。
吹奏楽の生演奏の重厚な響きが開会を告げた。
厳粛な空気の中での卒業証書授与、式辞、祝辞、そして在校生からの送辞、卒業生代
表の答辞、最後は卒業50年代表からのメッセージとつつがなく進行していった。
僕達も50年前にここを旅立っていったのだ。
光陰矢の如し、まさにあっという間の時間だったような気がする。
それでも現実は半世紀という気が遠くなるような時間を生きてきたのだ。
卒業50年まで辿り着けなかった同窓生も何人もいた。
行方の分からない同窓生もいる。
ここまで来られたこと、本当はそれだけでも幸せなことなのだ。
しみじみとその現実に感謝した。
卒業生退場、僕は精一杯の拍手を送った。
一人一人が豊かな人生であるようにと心から願った。
そして、後輩たちが生きていく世界が平和でありますようにと願った。
この卒業生達が50年後にまたこの席に座るのだろう。
その時、僕達先輩はもう誰もいない。
これからをどう生きていくのか、それはどう死んでいくのかということなのかもしれ
ない。
残された時間、僕は僕らしく生きていきたい。
記念の集合写真、同窓生達が前列席に僕を案内してくれた。
自律・敬愛・剛健、この三つが校訓だったことを卒業50年目に初めて知った。
優等生ではなかったという証だろう。
列席者の中で見えない人間は僕一人だった。
様々な場面でさりげないサポートを受けながら僕も問題なく参加できた。
僕は同窓生達に感謝しながらカメラに向かった。
僕が記念写真を見ることはない。
でも、優しき同窓生達に僕の笑顔を見て欲しいと思った。
(2025年3月5日)
新聞
家のポストに二種類の新聞が入っていた。
どちらも郵便で送られてきたものだった。
京都新聞と点字毎日新聞だった。
たまたま同じ日に届いた偶然に驚いた。
京都新聞は京都府と滋賀県で一番読まれている地方紙だ。
点字毎日新聞は毎日新聞社が発行している日本で唯一の点字新聞だ。
そのどちらの新聞にも僕の新刊を紹介した記事が掲載されていた。
見える人にも見えない人にも見えにくい人にも紹介してもらえたということになる。
しみじみと光栄なことだと思った。
何故本を書くのかと問われることがある。
実は、僕自身には本を書くというような意識はあまりない。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、そこに向かう
ための発信のひとつだ。
学校で福祉授業を受け持つこと、どこかで講演をすること、白杖で歩くこと、ありが
とうカードをお渡しすること、すべて同じ意味がある。
そして、本を書くということもそのひとつだ。
僕にとって4冊目の今回の本、刊行直後に先輩と電話で話をする機会があった。
先輩は先天盲で使用文字は点字だ。
僕が失明して間もなく知り合ったのだから、もう30年近いお付き合いとなる。
「すぐにアマゾンに注文したのよ。早く読みたいから。」
僕は一瞬返事に困った。
届く本は普通の文字だから彼女にはすぐに読むことはできない。
どう返事しようかと迷っている僕に彼女は付け加えて話された。
「最初の本を読んだ時、私の言いたいことを書いてくれているって思ったの。
届いたらすぐにボランティアさんに読んでもらうつもり。」
僕が今日まで歩いてこられたのは、出会った先輩、仲間の影響が大きい。
見えなくても見えにくくても、精一杯生きていこうとする人間の輝きをいろいろな場
面で教えてもらった。
本を書くということは、先輩や仲間へのありがとう返しの意味もあるのかもしれない
。
(2025年3月2日)
雪ウサギ
ニュースは大寒波と告げていた。
近畿地方の平地でも積雪になりそうとのことだった。
30センチくらいになるかもしれないとの予想もあった。
この三日間、僕は朝目覚めると顔も洗わずに靴下を履いてダウンコートを羽織った。
そして少しドキドキしながら玄関ドアのノブを握った。
ワクワクしながらそっとドアを開けた。
雪に埋もれている庭を想像した。
玄関を出て足を差し出した。
ささやかな雪の感触があった。
それから腰をかがめて指先で雪を触った。
ほんの少しの雪があった。
でも数センチはなかった。
立ち上がって空を眺めた。
うらめしそうに空を眺めた。
宝探しに失敗したような感覚だった。
部屋にもどってコーヒーを飲んだ。
ふと、子供の頃作った雪ウサギを思い出した。
いろいろな方向からカメラが近づくような映像が蘇った。
美しい白色だった。
赤い目は南天の実だったのだろうか。
耳は木の葉っぱだった。
口には木炭を使ったような気がした。
ひょっとしたらもう60年くらいになる記憶だ。
雪ウサギの横に幼い妹の笑顔があった。
宝探し、うまくいったのだと思った。
(2025年2月25日)
ドーナッツ
講演の手土産に頂いたドーナツを朝食に食べた。
程よい甘さ、質、量、高いクォリティを感じた。
原材料も吟味されているのだろう。
甘すぎることもなく、コーヒーによく合った。
このドーナッツを作っているのは福祉団体だ。
18歳以上の知的障害者、発達障害者、精神障害者など困りを持つ人達の就労と生活
を支援する場として20年近い歴史を育んでいるらしい。
最初からうまくいくはずはない。
利用者さんと職員さん達の日々の試行錯誤、まさに努力がこの製品を生み出したのだ
ろう。
お菓子職人の人達と同じような熟練の技を感じた。
この福祉団体の研修会の講師としてお招きを頂いたのだ。
開始時刻は17時半だった。
それぞれの職場で仕事を終えた人達がギリギリで会場に駆け込んで来られた。
研修は定刻に始まった。
僕はいつものように、視覚障害の意味、現状、課題などを説明した。
テーマのひとつになっていた虐待についてのコメントもはさんだ。
そして、障害って何だろうと皆さんに問いかけた。
僕の目の前にはいつもと変わらないグレー一色の世界が横たわっていた。
それでも会場の空気はいろいろなことを僕に教えてくれるから不思議だ。
皆さん、一生懸命に話を聞いてくださっているのが伝わってきた。
僕は最後に、一人の障害者として皆さんに感謝を伝えた。
講演の依頼を受けた時に、一番伝えたいと思ったのは「ありがとう」だった。
僕がそうであるように、障害を持った人達が生きていくにはいろいろな人の力が必要
だ。
その力が僕達の幸せに関わってくるのだ。
そしてその力はまさに人間の持つやさしさの中にある。
福祉の現場、課題はいろいろあり、大変なことも少しは理解しているつもりだ。
だからこそ、ありがとうを伝えたかった。
最後の一片を食べて、コーヒーを飲み干した。
今度は自分でこのドーナッツを買いに行こうと思った。
(2025年2月20日)
キンカン
久しぶりに風邪をひいたようだ。
花粉症かなと思っていたが、微熱も出たから風邪なのだろう。
鼻水がたれ流し状態になった。
昨日一日で箱ティッシュ1箱使ってしまった。
熱がそんなに高くならなかったからインフルエンザとかコロナではないと思う。
でも咳も出てきた。
風邪薬を飲んで暖かくしてコタツでぼぉっつとしている。
故郷の友人から届いたキンカンがバッチリのタイミングとなった。
味覚でビタミンを感じるなんてあまりない。
このキンカンは甘さとほんのりとした苦さを兼ね備えていて、皮と果肉のバランスも
とてもいい。
まさに早春の味だ。
季節を感じるものがどんどん少なくなってきている中で貴重な果物だ。
故郷の友人は小中学校時代の同級生だ。
大人になって再会してから毎年この早春を届けてくれている。
新しい春を感じた僕はまたこちらの友人にその春のお裾分けをしている。
人と人との付き合い、不思議なものだ。
もうそんなに多くは望まない。
確かなものを大切にして生きていきたい。
(2025年2月15日)
雪
いつもの靴にゴム製のスパイクをひっかけて歩いた。
雪道ですべらないためのものだ。
もう10年くらい前、義弟にもらった。
まさか二日続きで使う日があるとは思ってもみなかった。
三日間の研修の日がたまたま大寒波の日となってしまったのだ。
僕の住む滋賀県大津市も、研修会場のある京都市も雪が積もった。
僕は電車の遅延などを予想して早めに動いた。
研修講師なので遅れることは許されなかった。
始発のバスで動いたのだ。
まだ誰も歩いていない感じの雪道、雪を踏む感覚はうれしかった。
一歩ずつ慎重に足を動かした。
歩く道の途中で幾度か不安になった。
歩道と車道の段差を確認するのが難しかったのだ。
たまに通る車のエンジン音を聞きながら方向を修正した。
JRと地下鉄を乗り継いで二条まで辿り着いた。
ここからバスに乗れば、会場のライトハウスに行ける。
僕はバス停に向かって点字ブロックの上を歩き始めた。
いつもは鼻歌を歌いながらでも歩ける場所だ。
思ったよりも雪は深かった。
積もった雪は白杖の先を飲み込んだ。
足の裏での点字ブロックの確認も限界だった。
僕は立ちすくんでしまった。
ここで動けばもっと方向が分からなくなる。
間違って車道にでも出れば大変なことになる。
そう思った時だった。
「どこに行かれますか?」
まさに天使の声だった。
僕は向かっているバス停を伝えた。
彼女はバス停までのサポートを引き受けてくださった。
バス停には結構な人が並んでおられるようだった。
僕はその列を無視して、先頭までの誘導をお願いした。
列の後ろに付いて動くのは難しい。
急いで滑る危険性もあった。
僕は周囲にすみませんと言いながら先頭まで連れて行ってもらった。
「本当に助かりました。ありがとうございました。」
僕は彼女にありがとうカードを渡しながら感謝を伝えた。
間もなくバスがきた。
僕に気づいた乗客の方がすぐに座らせてくださった。
僕はなんとなくほっとしていた。
「きれいだね。」
僕の横に立っていた男性がお連れの女性に話された。
「うん、雪の京都、ラッキーだよね。」
その言葉を聞きながら僕も車窓を眺めた。
真っ白な世界を思い出した。
雪はいいなと僕も思った。
(2025年2月11日)
人権研修
迎えに来てくださった人権担当の先生の車に僕は乗り込んだ。
先生は以前に別の中学校でお会いしていた。
僕達は数年ぶりの再会を喜んだ。
先生は僕が今日出会う生徒達のことを車内で話された。
少ない言葉数だったが、そこには生徒達への愛情があった。
一人一人を大切に思っておられるのが伝わってきた。
それを聞きながら、僕自身の気持ちが優しくなっていくのを感じた。
体育館には150人程度の生徒達がいた。
僕はいつものように、いやひょっとしたらいつも以上に、心を込めて話をした。
担当の先生の人権への思いが僕に重なっていた。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔になれる社会を一緒に考えた。
一人一人がそれぞれに豊かな人生を歩んでくれるようにと願った。
終了後、また最寄り駅まで先生に送ってもらった。
先生は定年までの残り時間を教えてくださった。
僕は僕で、こういう活動ができる残り時間を考えた。
できる間はしっかりと未来を見つめてやっていきたいと思った。
車を降りて、僕達は固い握手を交わした。
こういう先生達と出会えたことが、僕の活動の支えのひとつになったことは間違いな
い。
感謝するということ、それは僕にできることを頑張るということだ。
今日話を聞いてくれた生徒達、先生方、またいつか出会えるような気がした。
(2025年2月5日)
スタバのコーヒーカップ
福祉授業の依頼があった小学校は僕が利用する駅からは少し距離があった。
彼は駅から小学校までの送りのボランティアを引き受けてくださった。
帰りも学校から自宅まで送ってくださることになっていた。
車でらくちん、僕にとってはとっても有難いことだった。
朝早めに待ち合わせた僕達は近くのスターバックスコーヒーに立ち寄った。
スタバのコーヒーは基本的には紙コップで提供される。
でも、希望すれば陶器のマグカップにしてもらえるし、別料金もかからない。
彼は紙コップ、僕はマグカップで注文した。
美味しいコーヒーの香りの中で彼が尋ねた。
「マグカップは持ち手があるからひっくり返したりする危険性が少ないからなの?」
どうやら、僕の視覚障害が理由でマグカップを選択していると勘違いされたらしい。
「違う違う。コーヒーを飲む時の唇の感覚が好きだからですよ。」
そして紙コップでもマグカップでも僕はこぼさないと偉そうに笑って付け加えた。
マグカップには一部彫り込んだ部分があるのを指先が発見した。
スタバのマークが彫り込んでデザインされているのだと彼が教えてくださった。
豊かな朝の時間を過ごしてから僕達は小学校に向かった。
福祉授業は講演、サポート体験、質問タイムというメニューだった。
給食を挟んで4時限の長丁場だった。
終了した時には彼の車は既に校門に到着していた。
帰り道にまたスタバのコーヒーを車内で飲みながらという提案を僕は喜んで受けた。
レシートがあればその日の2杯目はリーズナブルという特典も後押しになった。
そして、頑張った後のコーヒー、身体が欲していた。
国道沿いの駐車場のあるスタバで彼はテイクアウトで準備してくださった。
「テイクアウトは紙コップなんだよ。」
彼はそう言いながら、紙コップのコーヒーを車内のホルダーに置いてくださった。
僕はすぐに飲み始めた。
僕の膝に紙袋が乗せられた。
「今朝のと同じ陶器のマグカップが販売されていたんだよ。プレゼントだからね。」
怪訝に思っている僕に彼はうれしそうに説明してくださった。
その様子が高校生みたいで可笑しかった。
僕はありがたく受け取った。
こうして思わぬタイミングで頂くご褒美、やっぱりうれしい。
いい思い出になるなと思った。
(2025年1月31日)