映画「こんにちは、母さん」

有人と友人の奥様と3人で映画に出かけた。
有人は車いすで僕は視覚障害者、奥様はちょっと大変だったかもしれない。
僕は何も予定のない3連休だったので丁度いい気分転換にもなった。
映画は観たいと思っていた「こんにちは、母さん」という作品だった。
90歳を超えてメガフォンをとられた山田洋次監督の作品だ。
『男はつらいよ』
『釣りバカ日誌』
『幸福の黄色いハンカチ』
『遙かなる山の呼び声』
目が見えていた頃、心に残るいくつもの作品に出合った。
そして今回の作品もやっぱり山田洋次監督作品だなとしみじみと思った。
吉永小百合さんの演技も流石だと感じた。
寺尾聡さんは僕より10歳くらい年上の筈だが依然と変わらない現役だなと思った。
大泉洋さんの顔は実際には見た記憶はないのだが、『こんな夜更けにバナナかよ』で
ファンになった。
映画が進むに連れ心がやさしくなっていった。
見たことはないのにスカイツリーや浅草界隈を思い浮かべた。
エンドロールのシーンでは花火が描かれた。
パーンパーンシュルルルー
花火の音がシアター全体に木霊した。
僕の心の中にも木霊した。
突然目頭が熱くなった。
心が穏やかさの中にあるタイミングだったのかもしれない。
やさしい気持ちは自分自身を素直にしてしまうのだろう。
見えない自分を頭では理解している。
見えない自分の人生を不幸だとも思わない。
でも、見タイトいう思いはきっといつもどこかにあるのだろう。
あきらめるという課題をいつまでもあきらめられない僕がいる。
もう25年も経ったのに情けない。
つくづくと弱虫だと自覚する。
映画のあと3人でコーヒータイムだった。
いい映画の後のホットコーヒーは格別に美味しい。
見えるお二人と見えない僕が同じ映画を観て自然に語らう。
それだけで素敵なことなのかもしれない。
彼がまた観に行こうと誘ってくれた。
また連れて行ってもらおうと思った。
映画は好きだ。
(2023年9月19日)

ラグビー

4時からラジオの前で動けなかった。
敗れはしたが戦う気迫は伝わってきていた。
ノーサイドの笛の後、自然に拍手をしていた。
桜のジャージの選手達をなんとなく誇らしく感じた。
高校生の頃、ラグビー部に入れてもらった。
既に少し視野が欠けていた僕は選手にはなれなかった。
公式戦に出たことはない。
それでも練習にはいろいろな形で参加できた。
楕円形のボールを必死で追いかけた。
同学年の部員とは今でもつながりがある。
まなぶもただともしょうじもとしも皆かっこよかった。
そのひたむきさは素敵だった。
卒業式の後、一人で部室にさよならを言いに行ったことを憶えている。
最高だった時間にありがとうを言ったのかもしれない。
まなぶは20歳代後半、一人でニュージーランドを自転車旅行した。
お土産はオールブラックスのジャージだった。
僕の人生の宝物のひとつになっている。
ラグビーに縁があったお陰でラジオ中継を画像で思い浮かべることができる。
スクラムもモールもラックもラインアウトも一応分かる。
トライの瞬間もわかる。
キックされたボールがゴールポストを通過する数秒は美しい。
美しい映像の思い出を幸せだと思う。
そんな時間を過ごせたことを幸せだと思う。
また次のサモア戦も応援したい。
(2023年9月18日)

タイガース優勝

6時半には出発して枚方市の高校で授業をして午後は京都市内の大学だった。
夕食は学生と中華料理屋さんで済ませて帰ってきた。
乗り換えた電車6回、歩数1万2千歩、帰り着いたのは19時半、ヘトヘトだった。
でもワクワクしていた。
ドキドキしていた。
帰り着くなりラジオのスイッチを入れた。
間に合った。
ゲームはまだ中盤だった。
僕は下柳さんの解説を聞きながら幾度も頷いた。
岡田監督の優勝インタビューを聞き終わるまで動けなかった。
あれの瞬間、そっと万歳をした。
拍手をした。
監督の言葉を聞きながら笑顔がこぼれた。
目頭も熱くなった。
2005年以来18年ぶりのセリーグ制覇、とにかくただうれしかった。
そしてふと思った。
顔が浮かんでくるのは岡田監督と解説者の下柳さんだけだった。
しかも若い現役の頃の顔だ。
他の選手は観たことがない。
それでも今年も幾度もラジオ観戦した。
一喜一憂した。
先日のラグビー日本対チリ戦もラジオでずっと聞いていた。
無心で応援できるのがスポーツの魅力なのかもしれない。
何もしないで何も考えないで心が解き放たれる。
これから始まるクライマックスシリーズ、その先の日本シリーズ、ラグビーワールド
カップ、楽しみが続く。
勿論、相撲も気になる。
スポーツ観戦も趣味のひとつかな。
見えなくてもあまり支障はないと思っている。
(2023年9月15日)

爪切り

僕は手の爪も足の爪も自分で切っている。
見える頃は目で見ながら切っていたのだと思う。
だんだん見えなくなる中で長さなどを触覚で確認するようになっていった。
爪切りを右手で使いながら左手の人差し指で爪先を触って確認するのだ。
触覚での確認はついつい深爪になってしまう。
痛みを覚える直前まで切手しまうからだろう。
見える人に切り過ぎだと時々言われるが長過ぎるよりはいいと思っている。
爪きりの後はなんとなく気分もすっきりする。
好きな作業のひとつかもしれない。
夢中になれるからかな。
視覚障害者の友人の中には爪切りは怖いと言う人もおられる。
その人はやすりを使って手入れしているらしい。
怖いとか危険とかの感覚には個人差がある。
視覚障害者の中には階段を降りる時には必ず手すりを持つという人もおられる。
エスカレーターは絶対に乗らないという方もおられる。
どちらも理由は怖いという感覚だ。
先日出会った先天盲の人は猫が怖いらしい。
犬は大丈夫とのことなので理由を尋ねたら、猫はひっかくからとの答えだった。
ひっかかれた経験を尋ねたらそれはないらしい。
ひっかかれると痛いという知識が恐怖感を育んでしまったのだと思う。
猫は怖いのに蛇は怖くないとのことだった。
ひっかかないし噛みつくこともないかららしい。
ちなみに、彼は自分では爪切りを使うことはできない。
ずっと家族に切ってもらっていたからだ。
恐怖感は人それぞれ違うし変化もする。
見えなくなってから恐怖感を覚えるようになったものもある。
ホームに立っている時に通過する電車の音などはまさにそうだ。
一瞬身がすくむような気がしてしまう。
いつか出会った視覚障害者の人は電車とホームの間の溝が怖くてたまらないとのこと
だった。
彼女はできるだけ電車には乗らないようにして生活していると話してくださった。
やっぱり、感覚って人それぞれなのだと思う。
ちなみに爪切りの好きな僕は高級な爪切りを使っている。
京都のど真ん中にある刃物屋さんで3千円くらいする爪切りだ。
これだけは100円ショップのものには変えられないと思っている。
(2023年9月11日)

神様のサポート

福知山市で開催される講座は9時スタートだった。
僕は関係者と7時25分にJR嵯峨野線の丹波口駅の改札口で待ち合わせをした。
そこから車で高速を使えばギリギリセーフという計算だ。
6時過ぎに自宅を出発して、湖西線の電車で京都駅に向かう。
これは問題ない。
でも、限られた時間で京都駅の一番端にある嵯峨野線に乗り換えるのは無理だ。
朝の京都駅のラッシュは半端じゃない。
僕は毎朝その電車で通勤している同世代の男性に相談した。
幾度か駅で彼のサポートを受け、それで縁がつながったのだ。
朝のその時間の電車だったら、だいたいサポートを引き受けてくださる。
今週は月曜日に東京に言ったのだが、その時もサポートをしてくださった。
そして今日も引き受けてくださった。
今週は2回もサポートをお願いしたということになる。
予定の嵯峨野線の電車まで送ってもらって彼と別れた。
先が見えたと安堵したら疲労感を憶えた。
昨夜、東京から京都に帰ってきたのは21時を過ぎていたのだから無理もない。
12時間も経たないうちにもう動き始めていることに気づいた。
軽く深呼吸をして丹波口の駅で電車を降りた。
改札口に向かって歩き始めようとして愕然とした。
白杖でどこを触ってもガタガタで点字ブロックが分からない。
この駅は普段利用しないので構造もよく分かっていない。
「お手伝いしましょうか?」
途方に暮れようとした瞬間、サポートの声がした。
僕は点字ブロックが確認できなくて動けない状態だということを説明した。
彼女は改札口までのサポートを引き受けてくださった。
僕達は友達同士みたいに歩調を合わせておしゃべりしながら改札口へ向かった。
改札口で彼女と別れて関係者と合流した。
それから予定通りに車で福知山市に向かった。
9時数分前、無事会場に到着できた。
あのタイミングで声をかけてくださる人がいることをいつも不思議に思う。
神様が助けてくださっているのかもしれないと本気で思ってしまう。
本当に有難いことだ。
いろいろな人達に支えられて僕は生きている。
だからこそ、僕にできることは頑張ってやっていきたいと思う。
(2023年9月7日)

スーパーブルームーン

数日前、スーパーブルームーンだったのは知っていた。
ラジオでその話題があったからだ。
見た人には幸せが近づくらしい。
今日知り合いの先生から挨拶メールが届いた。
産休に入るのでしばらく仕事を休むとの内容だった。
出会いへの感謝の言葉が綴られていたが、その思いは僕も同じだった。
一緒に力を合わせて生徒達に向かい合った時間はとても豊かだった。
先生が産休に入ると知った時、わずかな淋しさはあった。
でもその何倍ものうれしさみたいな感情もあった。
先生からのメールにはスーパーブルームーンを見たと書いてあった。
美しい輝きだったらしい。
僕もふと記憶の中にあるお月様を思い出した。
見えていた頃、星を見ることはできなかったがお月様は見えていた。
夜盲という症状があったので小さな光は見えなかったのだ。
だから、暗闇の中でお月様だけが美しく輝いて見えていた。
ひょっとしたら、不通に見えている人達よりも美しいお月様だったのかもしれない。
思い出して笑顔になった。
スーパーブルームーンを見た先生が元気な赤ちゃんを産んでくださるようにと心から
願った。
(9月2日)

過ぎていく夏

最近最高気温が35度くらいになってきた。
この一週間程度かもしれない。
今日の予想も35度、明日もそうだ。
37度とか38度という日はなくなってきた。
今年の夏の暑さのピークは越えたのだろう。
セミの鳴き声や夕方の虫の声にもほんの少しの秋を感じる。
小さい秋見つけたとまではいかないが夏が終わりに向かっているのはわかる。
しみじみとほっとするのは酷暑が身体にもこたえていたということだろう。
そして数年前から、あと幾度新しい季節を迎えられるのだろうと思うようになった。
とりわけ身体に異常があるわけではない。
同世代の訃報に接することが増えてきたせいもあるのだろう。
誰にも分からないこと、僕にも分かる筈がない。
大切に生きていこうとしみじみと思う。
そして終わりの見えない戦争のことを考えてしまう。
この同じ空の下で今も続いている。
僕の半分の時間も生きていない若者達が命を落としていく。
いつか戦争は終わるのだろう。
勝っても負けても、平和になっても、その命はもどらない。
人間という生き物は本当に賢いのだろうか。
ふと自問自答する。
そして、何もできない自分自身も辛くなる。
(2023年8月27日)

ブラジル人

電車の中でちょっとお腹が痛くなった。
トイレに行きたい。
目的地までのルート、時間、一気に脳は動き始めた。
どの駅のどの場所でトイレに行けるか、そして仕事に間に合うかと考えを巡らせた。
講師という仕事なので休むことも遅刻も基本的には許されない。
行ったことのないトイレは探すということに時間がかかってしまう。
京都市内にはいくつか見えない僕にも利用できるトイレを確認してある。
幾度か利用し、あるいは練習し、単独で行けるようになっているトイレだ。
今回のルートはそこから外れていた。
微かな腹痛とあせりに追い込まれていくのを感じながら動いた。
乗り換えながらやっとたどり着いた駅、でも出口を間違がえたようだった。
他のお客さんの足音もない。
万事休す。
それでも僕は最後の力を振り絞って白杖で周囲を探し始めた。
その時に複数の足音が聞こえてきた。
誰かにトイレを探してもらおう。
恥ずかしさを超えた決心があった。
でもすぐに僕は絶望感に包まれた。
足音の人達は外国語だった。
うなだれそうになっている僕にその足音は近づいてきた。
「Can you speak English?」
イメージでは中年男性の声だった。
道でも尋ねられるのではないかと思った僕は即座に答えた。
「No!」
実際に僕は片言の英語しかできない。
実力としては最近の中学生以下だと思う。
単語を並べるのは少しできるがヒアリングはさっぱりだ。
次に彼から出たセンテンスにhelpというのがあったように聞こえた。
僕はダメモトでトイレを探すのを頼もうと思った。
まさに藁にも縋るの思いだったのだろう。
WCが何の単語の頭文字なのか思いつかない。
結局、僕は自分のお腹を指差しながら顔をしかめて彼に伝えた。
「トイレ!」
彼は仲間の人達と話し始めた。
仲間の人達が小走りに動き始める音が聞こえた。
僕とコミュニケーションをとった中年男性は僕の横にずっと立っていた。
時間が刻々と過ぎていった。
「トイレ!」
僕は再度中年男性に訴えた。
okという単語とone minutesという単語が聞き取れたような気がした。
中年男性は僕の肩にそっと手を置いて数度優しく叩いた。
まさに頑張れのメッセージのようだった。
そして中年男性は仲間の人達と幾度も大きな声でやりとりをした。
【まだ見つからないのか?】
【この日本人、そろそろ限界だぞ。】
【急げ急げ。】
やがて一人が走ってくる音が聞こえた。
そして中年男性とやりとりをした。
【ありました。でもこの改札口とまったく反対方向。50メートルはあります。】
他の人の声も聞こえた。
【階段を上り下りしなければいけません。距離もある。】
【目の前の改札を出たら横の通路がつながっているかもしれません。】
【とにかくそっちに急ごう。】
【】は僕の想像の内容だ。
僕と一緒にいた男性が僕の左手を自分の右肘に案内した。
僕達は改札機を強行突破して無人の改札口を出た。
僕はほとんど彼にぶら下がるようにして歩いた。
歩きながら彼は幾度か僕に話しかけたが僕には理解できなかった。
僕は青息吐息で尋ねてみた。
「Wat country?」
ブラジルという言葉が返ってきた。
何とか通じたらしかった。
間もなく反対側の改札の音が聞こえた。
「Station staff please!」
彼は僕を駅員さんのところに案内してくれた。
「トイレ、使わせてください。」
僕は駅員さんにお願いした。
こちら側の駅の構造は頭にあったのですぐに単独で動けた。
僕は振り返って手を振った。
「thank you!」ありがとう!thank you!
そして数歩進んでもう一度振り返った。
「I love Brazil!」
歩き始めた僕の背中に彼らの笑い声があった。
とにかく助かった。
リュックサックには予備の白杖などがいつも入っている。
これからそこに予備のパンツも加えようと決めて友人に顛末をはなしたら紙パンツの
利用を勧められた。
そっちの方がいいかもしれない。
しばらく悩んでみようと思う。
それにしても素敵なブラジル人達だった。
僕もあんな風になりたいなと素直に思った。
(2023年8月22日)

ひまわり台風

台風が去った後、庭を見て回った。
僕が見るというのは触るということだ。
あちこちを触り回った。
朝顔の鉢植えはいつもの場所にはなかった。
玄関の2つも裏庭の1つもそうだった。
僕はその辺りを歩幅を小さくしてゆっくり歩いた。
間もなく足が鉢に当たった。
風で飛ばされてひっくり返っていたのだ。
僕はその鉢をそっと抱えて元の場所に戻した。
それから葉っぱや茎、弦などを恐る恐る触った。
幸いひっくり返っただけで大きなダメージはなさそうだった。
ちょっとだけ安堵した。
それからあちこちのひまわりを見て回った。
愕然とした。
何本ものひまわりが倒れかかっていたし、実際倒れてしまっているのもあった。
そして、数本のひまわりは途中から折れてしまっていた。
自転車のハンドルの太さくらいはある丈夫な茎がぽっきりと折れてしまっていた。
僕はしばらく立ちすくんだ。
それから麻ひもとハサミと支柱を準備した。
倒れかかっているものは新しく支柱を立てたり麻ヒモで近くの鉄柱に結んだりした。
折れてしまっているものはどうしようもなかった。
ごめんねと呟くしかなかった。
悔しかったし悲しかった。
僕はまだ咲いてくれている花の部分を切り取って花瓶にさした。
そしてそれを玄関の脇に飾った。
誰かがくるわけではない。
庭に集う虫や鳥達が見てくれると思ったのだ。
それにしても凄まじい風だったんだなと改めて思った。
確かにうなり声をあげていたことも思い出した。
あちこちの被害が大きくありませんようにと心から願った。
そして、ありがとうとひまわりに伝えた。
僕にとってはひまわり台風として記憶に残るのだろう。
(2023年8月17日)

日傘

同行援護の研修がスタートした。
同行援護というのは視覚障害者の移動や代筆代読などを保障する制度だ。
その研修の講師をされる人たちの研修で、今回は主に西日本から参加されている。
8月12日から15日、まさにお盆期間を利用しての研修となった。
初日、会場の京都の最高気温は38度との予想だった。
僕が暮らしている滋賀県大津市も同じ38度、知っただけで眩暈がした。
それでも主催者側なので頑張らなくちゃいけない。
僕は昔から帽子は苦手だった。
幾度かかぶった経験はあるが髪の毛がぺちゃんこになるのが嫌なのだ。
最近、お日様の下を少し歩いただけで危険を感じるようになった。
そんな暑さなのだ。
僕の年齢による体力低下もあるのかもしれない。
とにかく対策をと思って日傘のデビューとなった。
日焼けは気にしないのでUVカットはそんなに拘らなかった。
それでもほとんどカットするらしい。
何より遮熱という性能に魅かれた。
これが凄いのだ。
まさに日陰を歩いている感じなのだ。
見える人は信号待ちのちょっとした時など、よく日陰を探して行動される。
見えない僕は日陰を探すことはできない。
見える人が日陰を探せることをうらやましく感じていた。
日傘があるということは日陰を連れて歩くということなのだ。
もっと早く使えば良かったと後悔した。
右手に白杖を使い、左手でグリーンの日傘をさして歩いています。
絵面的にも気に入っています。
でも、台風が近づいているとのこと、一応晴雨兼用だけど風には弱そうな感じ。
ちょっとだけ不安かな。
(2023年8月13日)