ウナギ

久しぶりに宇治を訪れた。
いくつもの思い出が転がっていることに気づいた。
やさしい思い出に包まれながら宇治橋を渡った。
宇治橋商店街にある川魚屋さんでウナギのかば焼きを買った。
初めてここのウナギを食べたのはもう10年以上前のことだ。
講演の帰りに関係者から頂いたお土産が茶団子とここのウナギだった。
実家に立ち寄って父ちゃんと一緒に食べた。
「うまいなぁ。」
父ちゃんがしみじみとつぶやいた。
喜怒哀楽をあまり出さない父ちゃんが本当にうれしそうだった。
僕は中座してこっそりと涙を拭った。
うれし涙だったと思う。
失明してしまったことに対しての申し訳なさみたいな気持ちが僕のどこかにあった。
理屈では説明しきれない感情だったと思う。
僕はそれから幾度もその川魚屋さんでウナギを買い求めた。
僕にもできる親孝行の真似事だったのだろう。
父ちゃんの好物はいつの間にか僕の大好物になった。
父ちゃんがこの世を去ってからは足が遠のいた。
遠いし自分のものとしては値段の高さもあった。
今回は父ちゃんにお供えするという理由付けでお土産にした。
ウナギを食べながら父ちゃんの顔が浮かんだ。
笑ってくれている顔だった。
(2018年5月21日)

色とりどりの緑の中を歩く。
きみどりからふかみどりのような濃い緑までたくさんの緑が僕を包む。
僕はわざと立ち止まって深呼吸をする。
緑が僕の肺まで届く。
なんとなく身体が軽くなるような気がする。
心までが解放されていく。
僕は閉じていた瞼をそっと開けてみる。
緑が見えるかもしれない。
そんな気になってしまう。
気のせいだと判ってまた目を閉じる。
悲しいとかの感情は沸かない。
照れ笑いの顔が緑に染まる。
そしてまたゆっくりと歩き出す。
(2018年5月18日)

丹波橋駅

丹波橋駅はよく利用する。
以前はサポーターと一緒の場合が多かったのだが最近は単独が多い。
近鉄丹波橋駅で電車を降りたらまず鳥の声を探す。
合成音の鳥の声が階段の上り口で定期的に鳴いてくれている。
その音に向かって点字ブロック沿いに歩く。
階段にたどり着くことができる。
階段を上ったら今度は改札機の音を探す。
駅構内の地図が頭に入っていないので音だけが頼りだ。
近鉄丹波橋駅から京阪丹波橋駅までの連絡通路は一本道だ。
上り下りの坂道ではあるが問題はない。
京阪丹波橋駅の構造は教えてもらったことはあるのだが記憶は定かではない。
結局毎回のように迷っている。
迷っている僕に気づいた駅員さんや通行人の方がサポートしてくださってなんとかな
っている。
それに味を占めている僕は記憶の努力を先延ばししてしまっている。
何とかなるさという姿勢は見えていた時も見えなくなってからも変わらない。
今日も又京阪丹波橋で迷ってしまった。
「松永先生、お久しぶりです。どうかなさったのですか?」
立ちすくんだ僕に声がかかった。
随分前の専門学校の教え子だった。
「深草方面のホームに行きたいけど分からなくなっているんだ。」
僕は迷子状態を説明した。
彼女は快くサポートを引き受けてくれた。
「私事ですが最近入籍しました。」
わずかの時間に近況と一緒に彼女は幸せをおすそ分けしてくれた。
僕もなんとなくうれしくなった。
帰宅したら彼女からメールが届いていた。
「先生が今もお元気そうで、その事が心から嬉しかったです!
今日の青空は柔らかで澄んだ青色をしていて、風に新緑がゆれて、
風に運ばれるように松永先生にお会いできて光栄でした。」
僕は笑顔になってコーヒーをすすった。
そして願った。
「末永くお幸せに!」
(2018年5月14日)

単独移動

ゴールデンウィークはいくつかの用事などもあったが例年よりはのんびりできた。
ゴールデンウィークの終わった翌日、僕は東京へ向かった。
会議に出席するためだ。
遊び疲れなどではないがなんとなく気だるさをひきずりながら家を出た。
天候の下り坂のせいもあったのかもしれない。
小雨の中、傘をさしながら歩き始めた。
いつもの道をゆっくりと歩いてバス停の点字ブロックを確認して止まった。
バスのエンジン音が近づいてきた。
僕の前でドアが開くと同時に放送が聞こえた。
「桂川駅行きです。正面が横向きの椅子です。全部空いています。」
完璧な案内だった。
「ありがとうございます。」
僕は首だけ運転手さんの方に向けて大きな声でお礼を伝えた。
そして座った。
何故か少し元気が出たような気がした。
桂川駅では僕を見つけた駅員さんが声をかけてくださった。
「何かお手伝いすることはありますか?」
僕は東京駅まで行くことを告げてサポートを依頼した。
それから駅員さんは乗換駅などに連絡をされているようだった。
やがて別の駅員さんが出てきて僕をホームまで案内してくださった。
「雨と一緒に東京ですね。きつく降らなければいいですね。」
電車待ちの時間に駅員さんは笑顔で話をされた。
「この時間帯はきっと混んでいるので入口の手すりに案内してください。」
僕は話の流れにのっかりながら依頼をした。
電車が到着して予定通りに入口の手すりの位置に乗車した。
「気をつけて行ってらっしゃい。」
駅員さんの声が車内に乗り込んだところでドアは閉まった。
僕はホームの駅員さんにお辞儀をした。
電車が動き始めてすぐに男性の乗客が声をかけてくださった。
「お座りになられますか?」
「ありがとうございます。助かります。」
僕は声をかけてくださった男性がどちらにおられるかは判断できなかったので、
とりあえず大きな声でお礼を言いながら座った。
またまた少し元気になった。
電車が京都駅に到着した。
僕を待っていた京都駅の駅員さんは慣れた手引きで僕を新幹線乗り換え口まで案内してくださった。
「ここからは東海の職員に交代します。
引継ぎ予定時間までに後4分くらいありますから待っていましょう。」
それから駅員さんは昨日までの京都駅の混雑の凄さなどを教えてくださった。
そして僕の視覚障害を意識してか歩きスマホの危険性なども語られた。
東海の駅員さんが到着された。
「行ってらっしゃい。」
京都駅の駅員さんは僕にそう言いながら引継ぎをされた。
「階段は大丈夫ですか?」
東海の駅員さんが尋ねられた。
「何でも大丈夫です。」
「階段が一番近いので階段で行きますね。」
僕は駅員さんと上りホームに移動した。
「業務連絡、4号車、乗車です。」
僕の乗車予定ののぞみ号が近づいてくるタイミングで駅員さんはハンドマイクで放送をされた。
「了解。」
またどこからか放送が入った。
ドアが開いたところにのぞみ号の客室乗務員の方が待機されていた。
無線で僕の乗車予定が伝えられていたのだ。
「気を付けて行ってらっしゃい。」
先ほどの駅員さんの声が背中を押した。
「ありがとうございました。」
客室乗務員の女性は僕を指定席まで案内してくださった。
「東京駅ではまた降車のお手伝いをさせてもらいます。」
こうして当たり前のように駅員さんや市民の方にお手伝いしてもらいながら僕は国内ならどこにでも行ける。
目隠しをした状態の人間が単独で移動できる社会って素晴らしいと感じる。
人間だからこそ築ける社会のような気がする。
そして人間同士の関わりは生きていく力や勇気をくれる。
出発の時の疲労感は完全に消えていた。
東京駅に着いたら満面の笑みのガイドさんが待っていてくださった。
幸せな気分になった。
(2018年5月9日)

ちまき

灰汁で炊かれた竹の皮は茶色に変化していた。
その竹の皮を剥がすと黄金色にも似た灰汁まきが横たわっていた。
僕達は灰汁まきではなくて粽と呼んでいた。
もち米だけでできているとは思えない風貌だった。
母ちゃんが糸を使って適当な大きさに切り分けてくれた。
それに砂糖と黄な粉をまぶして食べた。
5月5日の端午の節句の頃に食べていた。
子供の頃はそれを特別においしいと思ったことはなかった。
それなのに遥か彼方の記憶の中にしっかりと生きている。
年を重ねながら蘇ってくる記憶には何か意味があるのかもしれない。
兜を愛用するような勇猛果敢な人生はおくれなかった。
弱虫の男の子だったのだろう。
でも竿からはずれたこいのぼりのように自由に生きてこれた。
臆病者だから大空を逃げ回っていたのかな。
戻っていく川を探し続けているのかもしれない。
久しぶりにちまきを食べてみたくなった。
(2018年5月5日)

無言のぬくもり

バス停でバス待ちをしていた僕に彼女は声をかけてくださった。
名乗ってくださったが誰なのかは判らなかった。
僕の本を読んだということをうれしそうにおっしゃった。
それから三日前も一か月くらい前も僕を見かけたと教えてくださった。
でも誰かと一緒だったので声をかけるのを躊躇されたらしかった。
やっと機会に出会えたという感じだった。
彼女は本の感想などは何もおっしゃらなかった。
今朝の天気予報と目前の雲一つない空の青さを口にされた。
それからバスが到着するまでの時間は無言で過ごされた。
僕達は無言で会話していた。
見えない僕が言葉をやりとりできない世界は本当は難しい。
でも心はそこを越えてしまう時があるから人間って素晴らしい。
数分間の無言の会話の後やっと彼女は口を開かれた。
「バスがきました。気をつけていってらっしゃい。
お会いできてうれしかったです。」
「ありがとうございます。行ってきます。」
僕は感謝を伝えてバスに乗り込んだ。
(2018年5月2日)

高校生と外国人

高校での授業がスタートした。
初めて出会った高校生達に僕が高校生だった頃の思い出を語った。
思い出はキラキラと輝いていた。
そして少しの切なさも秘めていた。
自分の世界がどんどん広がっていった時期だった。
ただ、障害を持った人達について学ぶ機会はなかった。
だから大人になっても障害を持った人とのコミュニケーションは難しかった。
初日のたった2時間の授業で高校生達は見えない僕と笑顔をかわせるようになった。
若い頃の経験はそのまま血肉となるのだろう。
僕と出会ったことで人生はほんの少し豊かになるに違いない。
「ありがとうございました。」
「失礼します。」
授業が終わるとそれぞれが言葉を声に出しながら教室を出ていった。
「また今度ね。」
僕も1人ひとりに声を出して答えた。
学校を出てバス停に向かった。
バス停に着いたら周囲は皆外国人だった。
僕はいろんな国の言葉が飛び交う中で自分の乗るバスを探さなければならなかった。
ドアが開いた瞬間に流れる行先案内の放送を確認しなければならないのだ。
たった一回の放送は耳を澄ませても雑踏では聞き分けにくい。
緊張感を持って立っていた。
一台目のバスが停車した音が聞こえたが確認はできなかった。
僕はきっと不安そうな顔でキョロキョロしたのだろう。
隣で男性の声がした。
僕は英語は判らないのだけど最後の「セブン」は聞き取れた。
ひょっとして、まさか、そう思って立っていた。
次のバスが到着するエンジン音が聞こえた。
「サーティナイン」
彼はその言葉を2度繰り返した。
バスの39号という案内も聞こえた。
やっぱり彼は僕に番号を教えてくれていたのだ。
僕は彼に向かい合って、
「ナンバー スリー」と伝えた。
「ナンバー スリー OK!」
彼は笑った。
数台のバスが行った後3号のバスが到着した。
彼が今度は僕にそっと触れながら教えてくれた。
「サンキュウ ベルマッチ!」
僕はそう言いながらバスに乗り込んだ。
後ろから「バイバイ」という彼の声が聞こえた。
僕は彼に手を振ってそれから頭を下げた。
異国の地で日本語もできない彼の行動をカッコいいと思った。
あの高校生達がそんな大人になってくれるかもしれないとふと思った。
(2018年4月28日)

60万アクセス

おめでとうとメールが届いた。
たくさんの人から届いた。
他府県の人も複数おられた。
ブログは2012年に始まった。
覗いてくれた人のカウントは少しずつ少しずつ積み重ねられていった。
そして今日60万という数になった。
僕が両手を使って1から指折り数えてもきっとたどり着けないだろう。
数字と真正面から向かい合ってあらためて背筋が伸びる気がした。
僕達のことを少しでも正しく理解して欲しい。
僕達も参加しやすい社会になって欲しい。
願いがきっかけでスタートした。
だからはけ口にならないようにしようとその時決めた。
日常の暮らしの折々に悲しいことや辛いことはいくらでもある。
それを書けば涙をこぼしてもらえるかもしれない。
でも怒りや悲しみの涙からは笑顔は生まれない。
願いは希望、希望は未来、それは輝いていて欲しい。
だからいつも未来を向いて書いてきた。
これからもそうだ。
未来を向いてさえいれば共感してくださる人達がきっと風になってくださる。
60万人目のアクセスは視覚障害の女性だった。
届いた報告メールには60万の偶然への喜びと一緒に「体調に気をつけて」と書いてあった。
うれしかった。
光栄だと思った。
60万のひとつひとつのアクセスに心からありがとう。
これからも読んでいただければうれしいです。
(2018年4月24日)

木曜日

木曜日、午前中の専門学校での講義が終わると一旦休憩モードになる。
昼食を済ませて午後の大学へ移動する。
電車を乗り換えての移動は大変ではあるけれど、
ラッシュアワーは過ぎているのでマイペースで行ける。
それでも1時間くらいのゆとりがある。
その1時間を大学のキャンパスにあるカフェでぼんやりと過ごすことが多い。
この季節は冷暖房がオフで入口のドアが開放してある。
店内を柔らかな風が吹き抜ける。
のどかな音楽が控えめに流れている。
新年度を迎えた学生達はまだ真面目に講義に出ているのだろう。
店内はまばらだ。
僕はうとうとしながら睡魔と闘ったり仲良くなったりする。
コーヒー一杯で過ごす時間の豊かさに笑顔がこぼれる。
こういうのを贅沢って言うのだろう。
意味がないことに意味があることに気づく。
今年度もまた新しい学生達との出会いがある。
いつも何かを教えてもらったり感じさせてもらったりしている僕がいる。
こういう仕事をさせてもらえることに感謝したい。
(2018年4月20日)

会長

僕の地元の西京視覚障害者協会の総会が開催された。
会員とボランティアさん、50名を超す人が集まった。
新しい会長が選出された。
40歳代の全盲の男性だ。
満場一致の拍手が彼のスタートを激励した。
そしてこの7年間会長として頑張ってくださった前会長にも深く感謝が伝えられた。
僕も40歳代の頃地域の会長を経験したことがある。
活動の意味の理解もその方法も僕自身が未熟で大変だった。
忙しく感じた。
でも先輩達が真摯に社会に関わろうとされる姿を見て、
僕にもできることを精一杯やろうと思った。
あれから20年近くの時間が流れた。
地域の会長を退いてから京都府の理事となり様々な委員会や審議会にも関わった。
とうとう国の同行援護の委員会などにも関わるようになった。
我ながらよく頑張ってこれたなと思う。
自分のためだけだったらここまでできなかっただろう。
活動が仲間や後輩の力となっていくという確信があるからやってこれたのだ。
あの頃は忙しくなったと思っていたのはスタートに過ぎなかった。
いつの間にか忙しいと感じなくなってしまった。
忙しいと感じる時間がなくなってしまったのかもしれない。
裏返せば元気でやってこれたということだろう。
まだもう少しはやれそうだ。
今年度も僕は僕の立場で頑張ろう。
(2018年4月15日)

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