結婚披露宴

甥っ子の結婚披露宴、僕もお招きを受けた。
子供の頃はおばあちゃんと一緒によく京都を訪れていた。
小学生くらいの頃のはにかんだ少年の笑顔をうっすらと憶えている。
当たり前のことだが、会う度に成長を感じた。
電車が大好きだった少年は高校を卒業して鉄道関係の会社に就職した。
婚約者と一緒に挨拶にきてくれた時には逞しさを感じた。
今朝の天気は晴れ、少しだけ秋を運ぶ風が吹き始めている。
のどかな朝だ。
白いネクタイを着けての披露宴、僕の人生では最後の機会かもしれない。
心をこめて拍手をしよう。
笑顔で記念写真に入ろう。
その空間に存在できることに感謝だ。
けんと君、なおさん、ありがとう。
そして、おめでとう。
(2024年9月13日)

チャレンジ失敗

以前から思っていた。
京都駅を単独で利用できるようになりたい。
京都駅の構造はだいたい頭に入っている。
ただ、利用者の多さが半端じゃない。
1日平均の利用者数が30万人の駅だ。
キャスター付きの旅行バッグを引っ張って移動している観光客もとても多い。
場所によっては修学旅行の学生達の集団にも出会う。
外国人の利用者も多い。
点字ブロックの意味を知らない外国人も多くおられるようだ。
点字ブロックは日本で生まれたもので、世界中で使用されているものではないから仕
方ない。
その中を白杖一本を頼りに動くのは至難の技だ。
分かっているからこそやってみたくなるのかもしれない。
昔からチャレンジ精神だけは旺盛だ。
少しずつできるところから練習した。
湖西線の電車を降りてから電車の後方にひたすら歩く。
このホームには転落防護柵はないから慎重に歩かなければいけない。
一人もぶつからないで動くということはあり得ない。
小鳥の鳴き声放送で地下道への入り口を探す。
階段を降りて点字ブロック沿いに北に向かえば改札の音が聞こえてくる。
京都駅東改札口だ。
このルートは行けるようになった。
地下鉄の乗り換えにはよく利用している。
この逆の動きがまだできない。
3番線の手掛かりになる音を探すのが大変なのだ。
だから駅員さんにサポート依頼をしていた。
そして前回、目が見える友人に単独移動の練習を見守ってもらった。
トイレの放送やエスカレーターの音を頼りに動けばなんとかなりそうだと思った。
チャレンジした。
ホームにつながる階段の前で3番線かなと思案していた。
「何か困っておられますか?」
女性の声だった。
「3番線ホームに行きたいのです。この階段ですか?」
「違います。ここは5番ホームに行く階段です。私が案内しましょう。」
チャレンジは見事失敗していたのだ。
エスカレーターの音を一か所聞き逃したのかもしれない。
彼女は僕に肘を貸してくださった。
駅の関係者か尋ねたら、一般の人だった。
「時間は大丈夫ですか?」
僕は申し訳ないと思って尋ねた。
「大丈夫なので安心してください。」
爽やかな答えだった。
僕は甘えることにした。
エスカレーターがホームに着くタイミングで彼女に尋ねた。
「左側、3番線に電車はいますか?」
始発の電車が既に待機していた。
「発車時刻の案内を読んでください。」
彼女は僕の依頼を的確に処理してくださった。
「あと一分です。なんとか間に合いそうです。先頭車両です。」
なんとか間に合った。
彼女に感謝を伝えてありがとうカードを手渡した。
「貴方がいなかったら、この電車には間に合わなかったです。ありがとうございまし
た。」
それからすぐにドアが閉まった。
結局今日のチャレンジは失敗ということになるのかもしれない。
でも、彼女のサポートとの出会いも含めて成功と思ってしまうのが僕の前向きなとこ
ろなのだろう。
前向き、いや図々しさかな。
この図々しさも僕が単独で動くための大切な部分です。
失敗は成功の基、そう思うのも図々しさかなぁ。
また次回もきっとチャレンジします。
(2024年9月6日)

白杖の音

視覚障害者の友人やガイドヘルパーさん達が、街中で僕に気づくことがあるらしい。
白杖の音が強めでリズミカルに聞こえるとのことだ。
時々言われることがあるので音に癖があるのだろう。
先日もこの白杖の音で僕を見つけてくださった。
久しぶりに出会う先輩とガイドヘルパーさんだった。
白杖の音で僕と分かったとおっしゃった。
前回お会いしたのはいつだったのだろう。
コロナの前だったのかもしれない。
先輩は高齢になったとおっしゃったが、背筋は伸びていて話しぶりも変わっておられ
なかった。
知り合った頃から感じていた上品さもそのままだった。
僕達は特別に親しかったわけではない。
一緒に過ごした時間もそんなに多くはない。
それでも再会の喜びは特別だった。
人生の途中での視覚障害、同じように悩んだのだろう。
同じように苦しんだり悲しんだりしたのだろう。
そして同じ未来を見つめて生きていこうとするお互いを感じたのだろう。
エールを送りあったのかもしれない。
僕は二度も握手を求めた。
最初の握手は再会の喜びだった。
別れ際の握手はお互いにまた元気で頑張りましょうという意味合いだったと思う。
次、またいつどこでお会いできるか分からない。
でも、こうして心から喜べる再会ができるということは幸せなことだ。
エールを送り、エールを頂く。
人間っていいものだ。
癖のある白杖の音、これも僕の個性かな。
いいこともある。
(2024年9月1日)

まきちゃん

まきちゃんが家まできてくれた。
20年ぶりくらいの再会だった。
僕はまきちゃんをまきと呼ぶ。
まきちゃんは僕をのぶやと呼ぶ。
出会った頃の高校時代の話に花が咲く。
故郷の言葉が零れる。
高校を卒業して50年もの時間が流れた。
嘘みたいだねと笑顔を交わす。
庇のあった白い帽子をかぶったまきちゃんの笑顔の映像が蘇る。
はっきりと蘇る。
庇のあった白い帽子は母校の高校の女子の制帽だった。
制服は忘れてしまった。
うれしさがこみあげる。
久しぶりの種類のうれしさだ。
このうれしさは何だろう。
僕達は同じ景色を見ていた。
高校の校門、校舎、運動場、見ていた。
同じ列車で通学した。
車窓から見えた海、白い砂浜、所々にある岩場、見ていた。
見ていた僕をまきちゃんは知ってくれている。
白杖を持たずに走っていた僕をみたことがあるのだ。
僕が見えていたという証拠だ。
それがこの不思議な喜びにつながっているのだろう。
失明して27年、記憶が時々セピア色に変わっていることに気づく。
昔は見えていたと人前で言うことに少し照れくささを感じるようにもなった。
不思議な感覚だ。
まきちゃんとの再会は本当に見えていた自分との再会だったのかもしれない。
また会おうね。
(2024年8月28日)

高校野球

鹿児島県で生活したのは高校を卒業した18歳までだった。
その後1年間だけ東京で暮らした。
それからの45年間は京都で暮らしたということになる。
滋賀県での生活は3年目になった。
高校野球は鹿児島県、京都府、滋賀県と応援している。
今年の夏はこの3つの代表校がベスト8まで残っていたのでまさに満喫した。
元々野球は好きでついタイガースのゲームなどをラジオで聞いてしまう。
高校野球はプロ野球よりも面白い。
高校時代にラグビー部の隣に野球部の部室があった。
だから野球部の友達もいた。
そんなことも関係しているのかもしれない。
野球観戦では見えるとか見えないとかはさほど関係ないような気がする。
集中すればしっかりゲームに入れるからかもしれない。
決勝戦の京都と東京のゲームも素晴らしかった。
どちらのチームにも心からの拍手を送った。
うれしくて流す涙、悔しくて流す涙、どちらも美しい。
それを聞きながら流れる自分の涙、愛おしいと思う。
やっぱりスポーツはいい。
(2024年8月24日)

恵みの雨

玄関横のプランターにマリーゴールドの苗を植えたのは5月だった。
すくすくと育ってくれた。
8月に入っての日照りの続いた日々にはせっせとジョーロで水やりをした。
なんとか元気にしてくれていたし、花も咲いていた。
でも、やはり大地そのものが乾いていたのだろう。
雨上がりの今朝のマリーゴールドは全然違っていた。
葉も茎も花も活き活きしていた。
そっと触れる僕の手を押し返すようなエネルギーがあった。
そこにある空気までがそんな感じに思えた。
まさに恵みの雨だったのだ。
うれしそうなマリーゴールドを見て僕もうれしくなった。
僕の心にも恵みの雨となった。
(2024年8月22日)

違国日記

奥様の方と知り合ってからもう20年近くの時間が流れた。
福祉授業でお招き頂いた視覚障害者と小学校の先生という出会いだった。
その後、先生とはほぼ毎年会うことになった。
僕と子供達が出会う機会を幾度も作ってくださったのだ。
正しく知る機会の大切さを考えてくださったのだろう。
先生は異動されても可能な限りそれを続けてくださった。
ご主人と知り合ったのは数年前だ。
関係のある専門学校にお招きくださった。
正しく知る機会の大切さ、奥様の助言もあったに違いない。
一人でも多くの人に伝えたいと思っている僕にとっては有難いことだった。
ご主人は気さくな人柄で、僕のサポートも引き受けてくださるようになった。
先日も最終バスに間に合わない僕を京都から自宅まで車で運んでくださった。
共通の話題ができた僕達3人はたまに会うことになった。
今回はお盆休みを利用しての映画鑑賞だった。
待ち合わせの京都駅のホームには奥様が迎えに出てくださった。
待機していたご主人の車に乗り込んで出町柳にある出町座という映画館に向かった。
僕が観たいと思っていた『違国日記』がそこで上映していることを調べてくださった
のだ。
昭和の雰囲気の残る映画館でスマホの副音声アプリを使って映画を鑑賞した。
不思議な感覚だった。
映画館を出てファミレスに向かった。
僕達は夕食をとりながら映画の感想などを語り合った。
座席への誘導、メニューの説明、トイレなどはお二人のサポートを受けた。
でもそれ以外は僕達は普通に存在していた。
正しく理解してもらう延長線上に共に生きていく社会がある。
そしてそこに本物の幸せがあるような気がする。
『違国日記』、いい映画だった。
(2024年8月18日)

シャインマスカット

僕は基本的には白杖を使っての単独歩行だ。
見えなくなった頃に一年間の中途失明者生活訓練を受けた。
歩行訓練士の先生に白杖の使い方などをみっちりと指導してもらった。
それが今につながっている。
指導してくださった先生方には感謝してもしきれないくらいの思いがある。
目隠し状態で外を歩く。
いろいろな道を歩き、階段を上り下りし、バスや電車を利用して外出する。
しかも社会の流れとほぼ同じスピードだ。
少しは見えているのかと問われることはよくある。
それくらいに自然に動いているのだと思う。
その部分については、自分で自分を凄いと思うことさえある。
それでも結局は見えていないのだから失敗する。
迷子状態になることもよくある。
そしていろいろな人のサポートを受ける。
縁がつながることも時々ある。
7時台の電車に乗る女性はその電車を利用する時はサポートしてくださる。
彼女は通勤でその電車なのだが、経路の途中までずっと一緒にいてくださる。
混む時間なのでとても有難い。
乗り換えが大変な駅の場合は乗降口をずらしてサポートしてくださる。
定年を迎えた男性は時間はあるからとボランティアを申し出てくださっている。
慣れない場所などに行く時、時間があえば付き合ってくださる。
今月も既に一回予約してある。
駅で出会った女性は僕と同じ年齢だった。
彼女とはまさにメルトモとなった。
その彼女から、渡したいものがあると連絡があった。
彼女はもう車の運転はしておられないのだが、夏休みで娘さんご夫婦が帰省してこら
れたらしい。
娘婿さんが運転される車が僕の家の前に着いた。
僕は家の前の階段を降りて車に近づいた。
「知り合いからたくさん届いたの。手伝って。」
僕の手にシャインマスカットが乗せられた。
その流れの中で娘婿さんとも会話した。
4歳のお孫さんの小さな手とも握手した。
まさに縁がもたらしたやさしい時間だった。
お世話になった僕がお礼をするというのはあるかもしれない。
でも、お世話をしてもらった僕が頂く方だから人生は楽しいのだ。
シャインマスカット、見たことはない。
美しい黄緑色らしい。
皮ごと食べられてとても甘い。
ぶどうの女王と呼ばれるだけのことはある。
ちなみに、これまで買って食べたのは3回くらいかな。
美味しいけど高価過ぎてなかなか買う気にはならない。
日々の一人歩き、悲しいことや辛いことがないわけじゃない。
それでも一人で歩くから人に出会える。
シャイン。
輝く人達に出会える。
大粒の果実を噛みしめた。
幸せが口中に広がった。
(2024年8月11日)

贅沢な人生

京都駅の一日当たりの利用者数は30万人だ。
僕が乗り換えでよく利用する山科駅は6万人、地元の比叡山坂本駅は1万人だ。
そして僕の仕事は自由業だから利用する時間帯も日によって違う。
例え同じ電車に乗り合わせていたとしてもどの車両だったか何秒後に改札口を通るの
かなど、出会いはとても小さな確率の中に存在しているということになる。
まさに奇跡のような偶然なのだろう。
比叡山坂本駅の改札口を出たところで女性が声をかけてくださった。
「6月のことですが・・・」
6月10日に「子供さんとお父さん」でブログに書いた子供さんのお母さんだった。
あまりの偶然に驚いた。
ありがとうカードで僕のホームページを覗いてくださっていたのだろう。
「サポートが上手にできなかったと主人が言っていました。」
記憶の中のお父さんの誠実そうな雰囲気が蘇った。
僕は僕の勘違いで変な動きになってしまったことを説明した。
そして、声をかけてくださったことへの感謝を再度お伝えした。
「息子さんが怖い思いをされなかったかが心配でした。」
僕は僕の中に残っていた不安を伝えた。
大丈夫だったと知ってほっとした。
今手伝うことはありますか?」
お母さんは最後にそうおっしゃった。
僕はバス停までのサポートをお願いしようかと一瞬思った。
でも、たまたま荷物で左手も塞がっていたことに気づいて断念した。
慣れている場所でもあったからだ。
僕は感謝を伝えて彼女と別れた。
あのお父さん、そして今日のお母さん、あの子はきっといつか僕の仲間に声をかけて
くれるだろうと思った。
今日のお母さんとの出会いは偶然ではなく必然だったような気になった。
バス停に着いたら、男性が声をかけてくださった。
次のバスがくるまでに30分はあるとのことだった。
そして近くのベンチまで案内してくださった。
あることは知ってはいたが、空いているかが分からない僕にはいつもは利用できない
ベンチだった。
僕は座ってのんびりとバスを待つことができた。
うれしかった。
ちなみに彼は、30分もあるからと歩いて帰られた。
僕も見えていたらそちらを選択しただろうなとちょっとうらやましかった。
バスの発車時刻が近くなったので僕はベンチから動こうとした。
そして方向を見失った。
頭の中になんとなくの地図はあるつもりだったが曖昧だったのだろう。
点字ブロックを白杖で探そうとした時だった。
「私の肘を持ってください。」
また別の男性の声だった。
彼は僕をバス停まで案内してくださった。
彼も先ほどの男性も僕がどのバスに乗るかを知っておられたということになる。
これまでのどこかで見ていてくださっていたのだろう。
見守っていてくださったということだ。
この社会で生かされているのだとしみじみと思った。
地元の比叡山坂本駅に帰り着いての30分程度、そのわずかな時間に3名の方にお世話
になった。
3名の方と人生が交差したということだ。
僕の人生はとても贅沢なのかもしれないと思った。
(2024年8月7日)

社会モデル

まだお盆帰省には早いからとの判断は甘かった。
午前中のさくら号の指定席はすべて満席だった。
僕はデッキで立つ覚悟もしながら自由席のチケットを買った。
サポートしてくださった駅員さんに尋ねたら外国人旅行者の増加がもたらしている状
況とのことだった。
「一応狙ってみましょうか?」
駅員さんはホームに向かいながらそうおっしゃった。
僕の歩行能力を見極めた上での判断をされたのだと思う。
僕達は運動会の二人三脚みたいな感じで動いた。
「前を失礼しまーす。」
駅員さんは大きな声でアナウンスしながらホーム上を右に左に動いていかれた。
僕達のスピードは一般の方と同じ、いや早いくらいだったと思う。
僕が日常的に単独歩行ができる理由、まず持って生まれた平衡感覚だと思う。
それに運動能力、体力もあるだろう。
そして頭の中で地図をイメージする能力も高いのだと思う。
勉強は苦手でも元気はあるという特性が失明後の僕を助けてくれたのだ。
僕達の作戦は成功して自由席を確保できた。
駅員さんに感謝を伝えて席に着いた。
まず後ろのお客さんに声をだす。
「リクライニングを倒します。」
返事はなかった。
見えない僕は後ろの座席に人がおられるかも分からずに声を出す。
単純にエチケットだと思っているからだ。
ちなみに後で聞こえてきた会話で分かったのだが、後ろの方は外国人だった。
前の座席の背中に付いているテーブルをセットする。
リュックサックからパソコンを出す。
アイフォンのテザリング機能を使ってパソコンをネットにつなぐ。
それからイヤホンを耳に装着して準備完了。
流れるような動き、きっと見えない人間とは思われないだろう。
目的の薩摩川内市までの4時間、大切な仕事の時間だ。
夏休み期間を利用した先生方の研修にお招き頂いたのだ。
教育は未来に直結すると僕は思っている。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が参加できる社会を考える。
当事者の立場から正しい理解の大切さを伝え、そして思いを語る。
僕にとっては願ってもない有難い機会なのだ。
たった一度、それも2時間程度、そこでどれだけ伝えられるかは分からない。
いい加減な気持ちでは伝わらない。
一生懸命に取り組むこと、それが僕にできることだ。
準備したレジュメを確認しながら頭の中を整理する。
記憶は苦手なので流れの確認をしているだけなのだと思う。
現地では高校時代の友人達がサポートを引き受けてくれる。
これもまた有難いことだと思う。
宿泊先のホテルのスタッフの皆さんも応援してくださる。
僕が単独で動きやすいようにいつもの部屋を準備してくださるし、バイキングの朝食
も個別に対応してくださる。
医学モデルでは見えないことが障害と定義されていたが社会モデルに変化してきた。
障害は参加する社会の側にあるという考え方だ。
関西から鹿児島県への移動、一泊二日の滞在、僕にとって特別な障害は存在していな
い。
人間の社会はそれを可能にする潜在力があるのだと思う。
そして一番大切な部分、それはお互いを認め合う心の問題なのだろう。
そこを伝えるのが僕の役目と言っても過言ではないのかもしれない。
最初は少し固かった会場の空気、時間と共に微笑み出し、そして柔らいでいった。
会場を後にする時の先生方の暖かな拍手、それが答えだったのだと思う。
話を聞いてくださった先生方に心から感謝した。
一緒に過ごした時間が未来につながっていくような気がした。
(2024年8月4日)