からしだね館

僕の最新刊「あきらめる勇気」を読んでくださった人から連絡があった。
見える見えないに関わらず、そういうことがたまにある。
お互いの人生が交差する機会、幸せのひとつのような気もする。
2月2日、僕は地下鉄東西線小野駅で彼と待ち合せた。
少し早めに到着した僕は改札口の近くでぼぉっとして立っていた。
ちなみに、こういう時間は好きだ。
ふと、改札口の女性の駅員さんの声に気づいた。
乗降客が改札を通る度に声を出しておられた。
「ありがとうございます。」
「お気をつけて。」
どの声も爽やかで心がこもっているように感じられた。
僕に向けられた声ではないのだけれど、僕までもがちょっと幸せを感じた。
何十人もの人が改札を通られたが、彼女の声の爽やかさは変わらなかった。
誠実という言葉を思い出した。
素敵だと思った。
間もなく、僕は「からしだね館」の責任者の人と合流した。
彼が僕の著書を読んで連絡をくださったのだった。
僕は彼のサポートでからしだね館に向かった。
駅から5分もかからない場所にからしだね館はあった。
入り口には書店があり、奥にはカフェがあった。
精神障害の人達の就労継続事業所として運営されている場所だ。
店内は静かで、明るい雰囲気だった。
僕は途中でトイレも利用したが、やはり予想通りの清潔感だった。
お勧めメニューのカツカレーはおいしかった。
コーヒーもばっちりだった。
ちょっと変わったネーミングの「からしだね館」についても尋ねてみた。
それは聖書からきているものだった。
「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の
鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」
希望を感じられる言葉は美しい。
物覚えの悪い僕でも、一瞬で「からしだね館」を記憶できたような気がした。
視覚障害者になってから、他の障害者の人達や関係者と出会う機会は増えた。
他の障害についても少しずつ理解は深まっていった。
無知だった頃、僕は精神障害者の人に少しの恐怖感があった。
大きな事件の報道の時など、逮捕された人の精神鑑定が実施されるとメディアはよく
伝えていた。
いつもそれを聞かされていた僕は、精神障害は怖いものだと刷り込まれていったのか
もしれない。
精神障碍者の人の犯罪が一般の6分の1だと知った時、愕然としたのを憶えている。
正しく理解することの大切さを痛感した。
視覚障害についても同じだ。
まだまだ正しく理解されていないから僕は活動をしているのだと思う。
イメージだけで判断することはとても怖いことなのだ。
地下鉄東西線小野駅の近くに行かれたら、是非立ち寄ってみてください。
1番出口を出て、外環状線沿いに南へすぐの場所です。
月曜日から土曜日、11時〜17時オープンです。
「からしだね館」、ちょっと気持ちが豊かになる場所かもしれません。
カレー、お勧めです。
(2026年2月3日)

成長

中学一年生を対象にした人権講演だった。
会場は中学校の体育館だった。
予想最高気温7度という厳しい冷え込みの中、僕はコートを着たままで対応した。
話を聞く側の生徒達も大変だったと思う。
それでも、整然とした空気の中で講演はスタートできた。
これは事前学習などの効果も大きかったのかもしれない。
僕は先生方に感謝しながら話を進めていった。
小学校の時に僕の話を聞いたことがあるという生徒達もいた。
基本的な内容はそのままに、人権など一歩踏み込んだ話をすることができた。
いつものように、電車やバスの中で立ったまま過ごしているという話もした。
空席を見つけられないので立っているというエピソードだ。
その話の流れで、ありがとうカードの紹介もしようと思った。
その時、ふと思った。
小学校の時にありがとうカードをプレゼントしたはずだ。
まだ持っていてくれる生徒がいるかもしれない。
僕は生徒達に尋ねてみた。
持っていてくれた生徒達が声を出してくれた。
うれしかった。
僕の右手の人差し指がグレー一色の向こう側にいる生徒を指差した。
200人くらいの生徒達の一人を指差したのだ。
何も見えない状態で指名する、不思議なことだ。
小さな奇跡は神様が仕組んでおられるのかもしれない。
僕の隣にきてくれた生徒に、僕は新バージョンのありがとうカードを手渡した。
それからマイクを預けて、朗読をお願いした。
「声をかけてくださって助かりました
光も見えなくなってもう25年の時間が流れました
確かに見えない暮らしには慣れました
でも やっぱり
今でも駅のホームを歩くのは怖いです
横断歩道を渡る時も怖いです
電車やバスの中で空席を見つけられないので立っています
僕の日々の暮らしは貴方のような人のやさしさに支えられて成立しているのだと思います
そして声をかけられた時
心がちょっと幸せになります
これからもよろしくお願い致します」
生徒の堂々とした、そして爽やかな声が語り掛けるように流れていった。
一番感激したのは、勿論横で聞いていた僕だった。
僕がその生徒に向けた拍手はやがて会場全体を包んでいった。
その後の会場の雰囲気、間違いなく真剣な空気がレベルアップしていた。
朗読してくれた生徒も勿論だが、雰囲気を高めていってくれた他の生徒達、素晴らしい中学生達だなと思った。
休憩時間に朗読してくれた生徒と少しだけ話をした。
別れ際にその生徒はまた堂々と僕に言った。
「握手してください。」
僕達はお互いを見つめ、笑顔で握手した。
10歳の時に出会った少女、ちょっと大人になっていた。
人間としての成長を感じた。
この生徒達が社会の中心になってくれる頃、僕はもうこの世にはいないだろう。
でも、きっと、社会は少し未来に近づいているはずだ。
未来への種蒔、聞いてくれた生徒達に、そしてお招きくださった先生方に感謝しながら学校を後にした。
(2026年2月1日)

大きな幸せの一日

僕が出会う小学生、一番多いのは4年生だ。
総合的な学習で誰もが暮らしやすい社会についての取り組みなどが多いからだろう。
6年生に生き方探求ということで話をしたことも幾度かある。
今回は3年生だった。
難しい単語を使わないように心がけながら、そしてゆっくりと話をした。
子供達も3年生の終盤ということで低学年よりは考える力も成長してくれている。
僕の伝えたいこと、それなりに伝わったような気はした。
「目が見えない生活で、うれしいのはどんな時ですか?」
質問を受けた。
僕は今朝の出来事を話した。
9時前後、山科駅でJRから地下鉄に乗り換える時だった。
もうラッシュのピークは越えてはいたがそれなりに込んでいた。
電車に乗る時に困ること、2つある。
まずは乗るタイミングだ。
音や気配で判断する僕にとって、乗るタイミングはとても難しい。
降りてくる人がいつ終わったのか、僕の前の人がいつ乗り始めたのかが分からないの
だ。
もう一つは、乗車後に空席を見つけられないので立ったままということだ。
電車に安全に乗り込むことが大仕事のような日常がある。
今朝もホームで集中力を高めようとしている時だった。
「何かお手伝いすることがありますか?」
右から女性の声がした。
「助かります。僕の左にきて肘を持たせてください。」
彼女は僕の希望通りにサポートしてくださった。
安心して楽に乗車できたのだ。
僕の降車予定の駅も確認してくださり、空席も見つけて座らせてくださった。
20分くらいの乗車時間を考えてくださったのだろう。
そして途中の駅で一声かけて降りていかれた。
電車で困ること、2つとも解決できた幸せな朝となった。
僕が座れるのはこうしてサポートを受けられた時だけ、20回に1回くらいの割合だ。
話を聞いてくれた子供達はいろいろ感じてくれたのだろう。
「私もお手伝いできる人になりたいです。」
僕は9歳の笑顔の声をとてもうれしく感じた。
2時限の話、給食を挟んでお手伝いの方法の実習、質問タイム、合計4時限の中身の
濃い学習だった。
少しの疲労を感じながら、それでも気合を入れなおして帰路に着いた。
朝と逆コースで地下鉄で二条駅から山科駅、そこからJR湖西線、最後はバスというル
ートで1時間以上はかかるのだ。
二条駅の改札を入って、下りの階段を降りようとした時だった。
「手すりはこっち。」
おじいさんが僕の腕を手すりに案内しようとしてくださった。
僕は手すりがなくても降りれることを説明した。
おじいさんは耳が遠いらしく、僕の腕を持ったまま階段を降り始められた。
僕はおじいさんに歩調を合わせてゆっくりと歩いた。
一緒に電車に乗り、座らせてくださった。
降りる駅も同じ山科駅だった。
おじいさんはついでだからと、JR山科駅の改札まで行くとおっしゃった。
いや、JRとは言わずに国鉄とおっしゃった。
これは結構な距離があるので僕は辞退したが聞き入れてはもらえなかった。
僕はおじいさんの肘を持たせてもらってゆっくりと歩いた。
「わしは暇だから。目が見えんのが一番大変や。」
おじいさんは91歳、白内障で眼科に通院されておられるようだった。
「白内障は手術で治りますよ。手術したらよく見えるようになるそうですよ。」
僕はおじいさんの耳元に少し大きめの声で伝えた。
「ありがとさん。でも、もうこの年だからええわ。手術は怖いしなぁ。」
僕は駅に着くとおじいさんに感謝を伝えて、いつもより深くゆっくりと頭を下げた。
おじいさんは僕の身体を一回ポンと叩かれた。
僕はおじいさんの視線を背中に感じながらホームに向かった。
92歳で亡くなった父ちゃんと歩いた日々を思い出していた。
今日は朝も夕方も幸せを感じた。
大きな幸せの一日になったなと思った。
(2026年1月28日)

歌声

保育園の園長先生達の研修会にお招き頂いた。
地元の大津市の園長先生達50名くらいが参加しておられた。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、人間が育っていく場所だ。
すべての場所に共通するキーワードは「教え育む」だろう。
それはそのまま、その人の未来、この社会の未来につながっていく。
園長先生というお立場、子供達にも保護者にも、そして働いておられる保育士さん達
にも影響力を持っておられる。
正しく知ってもらえれば、未来に向かう大きな力となってくださるのは間違いない。
僕は機会に感謝しながら、いつものように話をした。
前を向いて話をしたが、勿論、僕の前には映像はない。
ただ、グレー一色の向こう側に向かって話をした。
視覚障害ってどういうことだろう。
何故視覚障害になるのだろう。
なったらどんなことに困るのだろう。
僕達はどうして欲しいと思っているのだろう。
「かわいそう」って何だろう。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、一緒に考えて
欲しいといつも願っている。
僕は心を込めて、願いを込めて話をした。
締めくくりの挨拶をしてくださった園長先生、重たい話を覚悟して参加したがそうで
はなかったとおっしゃってくださった。
飾らないチャーミングな挨拶にはエールがあった。
一緒に未来を見つめてくださったのが伝わってきた。
講演の後のあたたかな拍手、僕は手応えを感じながら深く頭を下げた。
講演後、新年会にも参加させて頂いた。
幾人もの方が話しかけてくださった。
話を聞けて良かったとおっしゃってくださった。
うれしかった。
ちなみに、その新年会の最初、大津市の保育園のテーマソングを歌うというコーナー
があった。
大人の団体でのそういう場面、実際に声を出して歌われるのは主催者側の一部の人と
いうことが多い。
この会場は違った。
参加している皆さんが大きな声で歌っておられるのに驚いた。
笑顔で堂々と歌っておられた。
仕事への情熱なのか、責任感なのか、歌声が会場に木霊した。
素直に素敵だと思った。
(2026年1月24日)

落ちた

僕が京都時代に暮らしていた京都市西京区に洛西寮という施設がある。
視覚障害者のための就労継続B型事業を運営している施設だ。
地域の西京視覚障害者協会はいろいろな会合やイベントでよくこの施設を利用させて
もらっている。
だから僕はもう25年くらい前からこの施設に出入りしていることになる。
そして10年くらい前からはこの施設でピアカウンセリングをさせてもらっている。
視覚障害者の僕が視覚障害の利用者の悩みを聞いたりするのだ。
冷静に振り返ってもたいしたことはできていない。
ただ、少しでも役に立ちたいという思いがここまできたのだと思う。
月に2回、対面で実施している。
とても慣れている建物だった。
全盲の利用者と廊下で立ち話をした。
楽しい話題で二人で思いっきり笑った。
それから別の部屋に動こうとして足を出した。
白杖を持っていたのだが、白杖より足が先に出てしまったのだろう。
そこは部屋に向かう廊下ではなくて下りの階段だった。
踊り場までの10段くらい、見事に落ちた。
スローモーションのように落ちながら咄嗟に身を守ることを考えた。
身体をひねった。
頭部を壁で打たないようにかばいながら落ちた。
背中が踊り場の床に叩きつけられた。
しばらくは動けずにひっくり返っていた。
微かに壁に当たった後頭部をそっと触った。
出血はないようだった。
それから手足がちゃんと動くかゆっくりと確かめた。
まだ運動神経は健在だったようだ。
打ち身はあったがけがはしてないようだった。
ひっくり返った姿勢のままでしみじみと思った。
僕は目が見えていないんだなぁ。
ゆっくりと立ち上がって、近くに転がっていた白杖を握った。
これが僕の目なんだ。
おろそかにしたらいけないとつくずく思った。
これが駅のホームなどで起こったらと考えたら背筋が凍るような気がした。
過信は禁物、慎重に歩いていかなくちゃ。
僕は目が見えない。
そう、僕は目が見えないんだ。
(2026年1月21日)

爽やかなスタート

のんびりと新年がスタートした。
のんびりと69歳がスタートした。
そして仕事始めの今週、充実した一週間だった。
2つの小学校と中学校と高校、370人くらいの児童生徒に出会った。
未来に向かって、370粒の種蒔ができたということになる。
バスに乗り、電車に乗り、そしてまた電車に乗り出かけた。
白杖をしっかりと握って歩いた。
リュックサックにはいつものノートパソコンと予備の白杖と飲料水を入れて歩いた。
スマホと音声時計も一緒だった。
胸ポケットにはありがとうカードとリフレッシュ用のミンティアを入れて歩いた。
相変わらず駅のホームは怖いと感じた。
白杖が幾度も通行人の足に当たった。
僕はその都度謝りながら前に進んだ。
電車はほとんど立ったまま過ごした。
慣れているはずの駅で迷子にもなった。
見えないってそういうことだ。
そしていろいろな人に助けてもらった。
近所の人、通勤で知り合った人、迷っている僕に気づいて声をかけてくださった通行
人、いろいろな人だ。
高校の授業はサプライズだった。
今年度6回のプログラム、今年初めてで今年度最後の授業だった。
授業を受けるのは卒業間近の女子高生達だった。
教室のドアを開いた瞬間だった。
「おめでとうございます。」
爽やかな声がコーラスのように教室にこだました。
最初出会った時を思い出して胸が熱くなった。
初めて教室に入った時、彼女たちは戸惑っていた。
それはそうだろう。
授業をするのは見えない人、人生で初めて出会う見えない人だったのかもしれない。
授業の数を重ねながら理解は深まっていったのだろう。
普通の授業ではなかなか返事をしないらしい生徒達が僕の授業ではしっかりと声を出
してくれるようになっていった。
そして笑顔も届けてくれるようになったのだ。
看護師や介護士を目指している生徒が多いらしい。
うれしく思った。
最後の授業は生徒達の率直な質問に答えるというものだった。
「一人で歩いていて、差別や嫌がらせみたいなことを受けることってないですか?」
ある意味、時代を映し出す質問だったのかもしれない。
僕は正直に答えた。
「それは全くないということはないよね。でも、その数の何百倍ものやさしい人に出
会えているよ。だから出かけられるんだと思う。」
「どうやってリフレッシュをしていますか?」
「どうしてポジティブになれるのですか?」
18歳くらいになるともう大人なのだろう。
生き方につながるような質問もいくつかあった。
今年の抱負も尋ねられた。
実はもうそんなことは考えていなかった。
だからその場で考えた。
「次の時代を創っていく君達にこうして伝えていくことだよ。
正しい理解が皆が幸せになれる社会につながると思っているからね。」
教えているつもりが教えられている。
僕のやらなければいけないことを未来が教えてくれる。
ライフワーク、僕にできることを今年もしっかりとやっていこう。
(2026年1月17日)

僕は鹿児島県阿久根市で生まれ育った。
中学校までは阿久根市、高校は隣の薩摩川内市にある川内高校だった。
18歳まで南の国で過ごしたということになる。
九州鹿児島だと雪は降らないと思っている人がいるがそんなことはない。
年に数回だったが降っていた。
積もることはほとんどなかったが、これも0ではない。
雪だるまを作った思い出もある。
南の国で育った少年は青春時代を京都で過ごしたが、雪が降るといつも胸がワクワク
した。
そのワクワク感はおじさんになっても同じだった。
そして今、ちょっとおじいさんになってきたが、やっぱり雪に出会うとワクワクして
しまう。
大寒波がくると天気予報は数日前から伝えていた。
僕は出かける予定の用事をキャンセルした。
そしてこの数日、朝目覚めると、まず外に出た。
見えるのだったら、朝一番にカーテンを開けて外を見たのだと思う。
僕にはそれはできない。
外に出て、足の裏で地面を確認し、念のためにかがんで指先でも触れて確認した。
雪はなかった。
ちょっとがっかりしながら部屋に戻った。
朝のコーヒーを飲みながらふと思った。
もし一度も雪を見たことがなかったとしたら、ここまでワクワクはしなかったのかも
しれない。
少年時代の一年に数度あるかないかの体験、それが基本にあるのだ。
空から舞い降りてくる雪、辺り一面を真っ白に変える雪、そして消えていく雪。
その美しさを知っているからこその胸の高鳴りなのだと思う。
いつか見えなくなる日がくるとしたら、見た経験があるのとないのとどちらがいいの
だろう。
いつか聞こえない日がくるとしたら、聞いた経験があるのとないのとどちらがいいの
だろう。
安直な答えを出そうとは思わない。
ただ、雪を待つ時の僕の心は、少年時代と同じように幸せだと思う。
(2026年1月12日)

新年会

大学時代からの45年くらいを京都で過ごした。
生まれ育った鹿児島県阿久根市、薩摩川内市が最初の故郷、二つ目が京都市、そして
終の棲家に選んだのが滋賀県大津市ということになった。
京都で暮らしている頃、39歳で失明した。
それからリハビリを受けた後、再度の社会参加を試みたがうまくいかなかった。
どうしようもない社会の壁の前でただ自分の無力さを思い知らされた。
僕は当時住んでいた京都で、京都府視覚障害者協会に入会した。
そこに入れば何か道が開けるかもしれないという微かな希望もあった。
でもそれは甘い考えで、希望は希望で終わった。
ただそれを超えるようなことがいくつかあった。
仲間との出会いもそうだろう。
自分と同じ病気の人だけでなく、視覚障害のいろいろな仲間と出会えた。
仲間との活動の過程で、命の輝きや人間の価値まで教えてもらったような気がする。
結局、大津市に引っ越すまでの20年程の長い時間を会員として過ごした。
後半は役職も多く経験した。
その経験は現在の活動などにも大きな影響をもたらすこととなった。
大津市に引っ越して、すぐに大津市視覚障害者協会に入会した。
京都時代は役員だったので、会の運営に関わる予定を優先していた。
大津では一般会員なので、自分のスケジュールを優先しながら、タイミングがあった
時だけ参加している。
気楽なものだ。
たまたまなのだが、新年会は4年で3回も参加できた。
今年の新年会、地域のガイドヘルパーさんにサポートしてもらって参加した。
司会者が参加者の名前を読み上げてくださり、僕達は返事をする。
大きな声、可愛らしい声、厳粛な声、笑いのある声、いろいろあって面白い。
その声で誰が参加しているか、どの辺りに着席されているのかが分かるのだ。
会長の年始の挨拶の後、お弁当での会食だ。
それから、それぞれに懇談しながら元気な再会を祝う。
僕は新参者だから知っている人も少ないが、こういう機会に少しずつ増えていく。
それもまた楽しい。
記憶の苦手な僕は僕なりの努力をしている。
一番に憶えた人、「糠漬けの○○さん」だ。
もう30年くらいになるらしいぬか床で漬けたお漬物を持参して振る舞ってくださる。
僕はこっそりと楽しみにしている。
こういう事で記憶していくのだから、食いしん坊の僕らしいと自分で思う。
彼女は僕より少しお姉さんだが、同じ病気だと今回始めて知った。
学生時代はソフトボールの選手だったとかで、現在の趣味もラジオでの野球観戦らし
い。
まだ光は確認できるとおっしゃった。
「光が感じられて良かったですね。人生の最後までそれが続きますように。」
もう光を確認できなくなっている僕はこっそりと心の中で願う。
新年会の最後は大津吹奏楽団の方達の演奏だった。
これもまた、ひとつひとつの楽器を説明してくださった。
どんな形か、どんな大きさか、そしてどんな音が出るかをやってくださったのだ。
視覚障害者の僕達へのお年玉みたいな配慮だなと感じた。
数曲の演奏があったが、やはり「琵琶湖周航の歌」はあった。
滋賀県での視覚障害者の集いでは必ず耳にする。
100年以上も県民に愛されている歌となっているらしい。
「琵琶湖周航の歌」のメロディが心に染み込んでいった。
僕は今、この滋賀県大津市に住んでいるんだなとしみじみと思った。
僕の人生での三つ目の故郷、今年もいい一年になりますように。
(2026年1月11日)

チューリップの芽

球根を植えたのは10月だった。
今日まで雪がちらついた日はあった。
積もった日はなかったと思う。
氷水のように冷たい雨が降った日はあった。
幾日もあった。
北風がウナリ声をあげた日もあった。
乾燥が数日続いた時もあった。
日毎に環境は変化していた。
この条件で人間が戸外にいたら生きていけない。
命は尽きるだろう。
そっと鉢植えの土の上を探した。
右手の指の腹で土の表面を撫でるように探した。
指が堅い芽に触れた。
間違いなくチューリップの芽だ。
今度はそれを親指と人差し指でそっとつまむようにして確かめた。
堅さが伝わってきた。
その堅さに息を飲んでしまった。
宿っていた生命の強さだろうか。
わずか50グラム足らずの球根の中に潜んでいた強さだ。
きっと鮮やかな緑色なのだろう。
緑色は太陽の光を浴びながら、やがてやさしさを生み出していくのだ。
それは赤や黄色や桃色などの花弁に変化していく。
光は魔法使いなのかもしれない。
そんなことを考えたらうれしくなった。
春が楽しみだ。
(2026年1月7日)

69歳

50歳代後半から60歳代前半、歳をとるのを嫌だなと思ったりしたことがあった。
様々な制度が65歳からを高齢者と定義していたからかもしれない。
まだ高齢者じゃないというような気持ちがどこかにあったのだろう。
でも少し変化を自覚するようになった。
例えば、太りやすくなった。
基礎代謝は落ちているのにこれまでと同じように食べるからだろう。
数年前のズボンがはけなくなった。
元々悪かった記憶力、更にひどくなった。
いろいろな単語が口から出るのに時間がかかるようになった。
聴力も少し落ちてきたような気もする。
認めざるを得ない現実だ。
気持ちにも変化が起こり始めた。
今日僕は69歳になった。
素直にまず感じること、ここまでこれたことへの感謝だ。
歳をとるのが嫌なのではなく、また元気で誕生日を迎えられたことがうれしいのだ。
これからまだまだ、身体能力などは右肩下がりで少しずつ落ちていくのだろう。
上手にお付き合いしていくのが歳を重ねるということなのかもしれない。
68年間の経験はそこにつながるような気もしてきた。
食べ過ぎないようにしよう。
運動も少しは考えよう。
外出の際は慌てずにそしてより緊張感を持って動こう。
困ったら堂々と周囲に援助依頼をしよう。
心を安らげる時間は一番大切にしよう。
そしてまだまだできることがあると思っている。
やらなければいけないことがあると思っている。
歳を重ねながら、活動範囲などは広がってきている部分もある。
今年も既に、千葉、東京、長崎、鹿児島と仕事の予定が入っている。
社会に関われること、感謝しながらしっかりと取り組んでいきたい。
昨日が今年最初の仕事の日、独居の先輩を訪ねて歓談すること、「国境なき医師団」
に寄付を届けることが予定だった。
どちらもちゃんとできた。
帰宅して歩数計を確認したら、11,803歩だった。
今朝はいつものようにイノダのスティックコーヒーで一日が始まった。
いいスタートができたような気がする。
ささやかでいい。
僕にできることをしっかりとやっていこう。
視線は未来だ。
(2026年1月5日)