僕が出会う小学生、一番多いのは4年生だ。
総合的な学習で誰もが暮らしやすい社会についての取り組みなどが多いからだろう。
6年生に生き方探求ということで話をしたことも幾度かある。
今回は3年生だった。
難しい単語を使わないように心がけながら、そしてゆっくりと話をした。
子供達も3年生の終盤ということで低学年よりは考える力も成長してくれている。
僕の伝えたいこと、それなりに伝わったような気はした。
「目が見えない生活で、うれしいのはどんな時ですか?」
質問を受けた。
僕は今朝の出来事を話した。
9時前後、山科駅でJRから地下鉄に乗り換える時だった。
もうラッシュのピークは越えてはいたがそれなりに込んでいた。
電車に乗る時に困ること、2つある。
まずは乗るタイミングだ。
音や気配で判断する僕にとって、乗るタイミングはとても難しい。
降りてくる人がいつ終わったのか、僕の前の人がいつ乗り始めたのかが分からないの
だ。
もう一つは、乗車後に空席を見つけられないので立ったままということだ。
電車に安全に乗り込むことが大仕事のような日常がある。
今朝もホームで集中力を高めようとしている時だった。
「何かお手伝いすることがありますか?」
右から女性の声がした。
「助かります。僕の左にきて肘を持たせてください。」
彼女は僕の希望通りにサポートしてくださった。
安心して楽に乗車できたのだ。
僕の降車予定の駅も確認してくださり、空席も見つけて座らせてくださった。
20分くらいの乗車時間を考えてくださったのだろう。
そして途中の駅で一声かけて降りていかれた。
電車で困ること、2つとも解決できた幸せな朝となった。
僕が座れるのはこうしてサポートを受けられた時だけ、20回に1回くらいの割合だ。
話を聞いてくれた子供達はいろいろ感じてくれたのだろう。
「私もお手伝いできる人になりたいです。」
僕は9歳の笑顔の声をとてもうれしく感じた。
2時限の話、給食を挟んでお手伝いの方法の実習、質問タイム、合計4時限の中身の
濃い学習だった。
少しの疲労を感じながら、それでも気合を入れなおして帰路に着いた。
朝と逆コースで地下鉄で二条駅から山科駅、そこからJR湖西線、最後はバスというル
ートで1時間以上はかかるのだ。
二条駅の改札を入って、下りの階段を降りようとした時だった。
「手すりはこっち。」
おじいさんが僕の腕を手すりに案内しようとしてくださった。
僕は手すりがなくても降りれることを説明した。
おじいさんは耳が遠いらしく、僕の腕を持ったまま階段を降り始められた。
僕はおじいさんに歩調を合わせてゆっくりと歩いた。
一緒に電車に乗り、座らせてくださった。
降りる駅も同じ山科駅だった。
おじいさんはついでだからと、JR山科駅の改札まで行くとおっしゃった。
いや、JRとは言わずに国鉄とおっしゃった。
これは結構な距離があるので僕は辞退したが聞き入れてはもらえなかった。
僕はおじいさんの肘を持たせてもらってゆっくりと歩いた。
「わしは暇だから。目が見えんのが一番大変や。」
おじいさんは91歳、白内障で眼科に通院されておられるようだった。
「白内障は手術で治りますよ。手術したらよく見えるようになるそうですよ。」
僕はおじいさんの耳元に少し大きめの声で伝えた。
「ありがとさん。でも、もうこの年だからええわ。手術は怖いしなぁ。」
僕は駅に着くとおじいさんに感謝を伝えて、いつもより深くゆっくりと頭を下げた。
おじいさんは僕の身体を一回ポンと叩かれた。
僕はおじいさんの視線を背中に感じながらホームに向かった。
92歳で亡くなった父ちゃんと歩いた日々を思い出していた。
今日は朝も夕方も幸せを感じた。
大きな幸せの一日になったなと思った。
(2026年1月28日)
大きな幸せの一日
歌声
保育園の園長先生達の研修会にお招き頂いた。
地元の大津市の園長先生達50名くらいが参加しておられた。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、人間が育っていく場所だ。
すべての場所に共通するキーワードは「教え育む」だろう。
それはそのまま、その人の未来、この社会の未来につながっていく。
園長先生というお立場、子供達にも保護者にも、そして働いておられる保育士さん達
にも影響力を持っておられる。
正しく知ってもらえれば、未来に向かう大きな力となってくださるのは間違いない。
僕は機会に感謝しながら、いつものように話をした。
前を向いて話をしたが、勿論、僕の前には映像はない。
ただ、グレー一色の向こう側に向かって話をした。
視覚障害ってどういうことだろう。
何故視覚障害になるのだろう。
なったらどんなことに困るのだろう。
僕達はどうして欲しいと思っているのだろう。
「かわいそう」って何だろう。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、一緒に考えて
欲しいといつも願っている。
僕は心を込めて、願いを込めて話をした。
締めくくりの挨拶をしてくださった園長先生、重たい話を覚悟して参加したがそうで
はなかったとおっしゃってくださった。
飾らないチャーミングな挨拶にはエールがあった。
一緒に未来を見つめてくださったのが伝わってきた。
講演の後のあたたかな拍手、僕は手応えを感じながら深く頭を下げた。
講演後、新年会にも参加させて頂いた。
幾人もの方が話しかけてくださった。
話を聞けて良かったとおっしゃってくださった。
うれしかった。
ちなみに、その新年会の最初、大津市の保育園のテーマソングを歌うというコーナー
があった。
大人の団体でのそういう場面、実際に声を出して歌われるのは主催者側の一部の人と
いうことが多い。
この会場は違った。
参加している皆さんが大きな声で歌っておられるのに驚いた。
笑顔で堂々と歌っておられた。
仕事への情熱なのか、責任感なのか、歌声が会場に木霊した。
素直に素敵だと思った。
(2026年1月24日)
落ちた
僕が京都時代に暮らしていた京都市西京区に洛西寮という施設がある。
視覚障害者のための就労継続B型事業を運営している施設だ。
地域の西京視覚障害者協会はいろいろな会合やイベントでよくこの施設を利用させて
もらっている。
だから僕はもう25年くらい前からこの施設に出入りしていることになる。
そして10年くらい前からはこの施設でピアカウンセリングをさせてもらっている。
視覚障害者の僕が視覚障害の利用者の悩みを聞いたりするのだ。
冷静に振り返ってもたいしたことはできていない。
ただ、少しでも役に立ちたいという思いがここまできたのだと思う。
月に2回、対面で実施している。
とても慣れている建物だった。
全盲の利用者と廊下で立ち話をした。
楽しい話題で二人で思いっきり笑った。
それから別の部屋に動こうとして足を出した。
白杖を持っていたのだが、白杖より足が先に出てしまったのだろう。
そこは部屋に向かう廊下ではなくて下りの階段だった。
踊り場までの10段くらい、見事に落ちた。
スローモーションのように落ちながら咄嗟に身を守ることを考えた。
身体をひねった。
頭部を壁で打たないようにかばいながら落ちた。
背中が踊り場の床に叩きつけられた。
しばらくは動けずにひっくり返っていた。
微かに壁に当たった後頭部をそっと触った。
出血はないようだった。
それから手足がちゃんと動くかゆっくりと確かめた。
まだ運動神経は健在だったようだ。
打ち身はあったがけがはしてないようだった。
ひっくり返った姿勢のままでしみじみと思った。
僕は目が見えていないんだなぁ。
ゆっくりと立ち上がって、近くに転がっていた白杖を握った。
これが僕の目なんだ。
おろそかにしたらいけないとつくずく思った。
これが駅のホームなどで起こったらと考えたら背筋が凍るような気がした。
過信は禁物、慎重に歩いていかなくちゃ。
僕は目が見えない。
そう、僕は目が見えないんだ。
(2026年1月21日)
爽やかなスタート
のんびりと新年がスタートした。
のんびりと69歳がスタートした。
そして仕事始めの今週、充実した一週間だった。
2つの小学校と中学校と高校、370人くらいの児童生徒に出会った。
未来に向かって、370粒の種蒔ができたということになる。
バスに乗り、電車に乗り、そしてまた電車に乗り出かけた。
白杖をしっかりと握って歩いた。
リュックサックにはいつものノートパソコンと予備の白杖と飲料水を入れて歩いた。
スマホと音声時計も一緒だった。
胸ポケットにはありがとうカードとリフレッシュ用のミンティアを入れて歩いた。
相変わらず駅のホームは怖いと感じた。
白杖が幾度も通行人の足に当たった。
僕はその都度謝りながら前に進んだ。
電車はほとんど立ったまま過ごした。
慣れているはずの駅で迷子にもなった。
見えないってそういうことだ。
そしていろいろな人に助けてもらった。
近所の人、通勤で知り合った人、迷っている僕に気づいて声をかけてくださった通行
人、いろいろな人だ。
高校の授業はサプライズだった。
今年度6回のプログラム、今年初めてで今年度最後の授業だった。
授業を受けるのは卒業間近の女子高生達だった。
教室のドアを開いた瞬間だった。
「おめでとうございます。」
爽やかな声がコーラスのように教室にこだました。
最初出会った時を思い出して胸が熱くなった。
初めて教室に入った時、彼女たちは戸惑っていた。
それはそうだろう。
授業をするのは見えない人、人生で初めて出会う見えない人だったのかもしれない。
授業の数を重ねながら理解は深まっていったのだろう。
普通の授業ではなかなか返事をしないらしい生徒達が僕の授業ではしっかりと声を出
してくれるようになっていった。
そして笑顔も届けてくれるようになったのだ。
看護師や介護士を目指している生徒が多いらしい。
うれしく思った。
最後の授業は生徒達の率直な質問に答えるというものだった。
「一人で歩いていて、差別や嫌がらせみたいなことを受けることってないですか?」
ある意味、時代を映し出す質問だったのかもしれない。
僕は正直に答えた。
「それは全くないということはないよね。でも、その数の何百倍ものやさしい人に出
会えているよ。だから出かけられるんだと思う。」
「どうやってリフレッシュをしていますか?」
「どうしてポジティブになれるのですか?」
18歳くらいになるともう大人なのだろう。
生き方につながるような質問もいくつかあった。
今年の抱負も尋ねられた。
実はもうそんなことは考えていなかった。
だからその場で考えた。
「次の時代を創っていく君達にこうして伝えていくことだよ。
正しい理解が皆が幸せになれる社会につながると思っているからね。」
教えているつもりが教えられている。
僕のやらなければいけないことを未来が教えてくれる。
ライフワーク、僕にできることを今年もしっかりとやっていこう。
(2026年1月17日)
雪
僕は鹿児島県阿久根市で生まれ育った。
中学校までは阿久根市、高校は隣の薩摩川内市にある川内高校だった。
18歳まで南の国で過ごしたということになる。
九州鹿児島だと雪は降らないと思っている人がいるがそんなことはない。
年に数回だったが降っていた。
積もることはほとんどなかったが、これも0ではない。
雪だるまを作った思い出もある。
南の国で育った少年は青春時代を京都で過ごしたが、雪が降るといつも胸がワクワク
した。
そのワクワク感はおじさんになっても同じだった。
そして今、ちょっとおじいさんになってきたが、やっぱり雪に出会うとワクワクして
しまう。
大寒波がくると天気予報は数日前から伝えていた。
僕は出かける予定の用事をキャンセルした。
そしてこの数日、朝目覚めると、まず外に出た。
見えるのだったら、朝一番にカーテンを開けて外を見たのだと思う。
僕にはそれはできない。
外に出て、足の裏で地面を確認し、念のためにかがんで指先でも触れて確認した。
雪はなかった。
ちょっとがっかりしながら部屋に戻った。
朝のコーヒーを飲みながらふと思った。
もし一度も雪を見たことがなかったとしたら、ここまでワクワクはしなかったのかも
しれない。
少年時代の一年に数度あるかないかの体験、それが基本にあるのだ。
空から舞い降りてくる雪、辺り一面を真っ白に変える雪、そして消えていく雪。
その美しさを知っているからこその胸の高鳴りなのだと思う。
いつか見えなくなる日がくるとしたら、見た経験があるのとないのとどちらがいいの
だろう。
いつか聞こえない日がくるとしたら、聞いた経験があるのとないのとどちらがいいの
だろう。
安直な答えを出そうとは思わない。
ただ、雪を待つ時の僕の心は、少年時代と同じように幸せだと思う。
(2026年1月12日)
新年会
大学時代からの45年くらいを京都で過ごした。
生まれ育った鹿児島県阿久根市、薩摩川内市が最初の故郷、二つ目が京都市、そして
終の棲家に選んだのが滋賀県大津市ということになった。
京都で暮らしている頃、39歳で失明した。
それからリハビリを受けた後、再度の社会参加を試みたがうまくいかなかった。
どうしようもない社会の壁の前でただ自分の無力さを思い知らされた。
僕は当時住んでいた京都で、京都府視覚障害者協会に入会した。
そこに入れば何か道が開けるかもしれないという微かな希望もあった。
でもそれは甘い考えで、希望は希望で終わった。
ただそれを超えるようなことがいくつかあった。
仲間との出会いもそうだろう。
自分と同じ病気の人だけでなく、視覚障害のいろいろな仲間と出会えた。
仲間との活動の過程で、命の輝きや人間の価値まで教えてもらったような気がする。
結局、大津市に引っ越すまでの20年程の長い時間を会員として過ごした。
後半は役職も多く経験した。
その経験は現在の活動などにも大きな影響をもたらすこととなった。
大津市に引っ越して、すぐに大津市視覚障害者協会に入会した。
京都時代は役員だったので、会の運営に関わる予定を優先していた。
大津では一般会員なので、自分のスケジュールを優先しながら、タイミングがあった
時だけ参加している。
気楽なものだ。
たまたまなのだが、新年会は4年で3回も参加できた。
今年の新年会、地域のガイドヘルパーさんにサポートしてもらって参加した。
司会者が参加者の名前を読み上げてくださり、僕達は返事をする。
大きな声、可愛らしい声、厳粛な声、笑いのある声、いろいろあって面白い。
その声で誰が参加しているか、どの辺りに着席されているのかが分かるのだ。
会長の年始の挨拶の後、お弁当での会食だ。
それから、それぞれに懇談しながら元気な再会を祝う。
僕は新参者だから知っている人も少ないが、こういう機会に少しずつ増えていく。
それもまた楽しい。
記憶の苦手な僕は僕なりの努力をしている。
一番に憶えた人、「糠漬けの○○さん」だ。
もう30年くらいになるらしいぬか床で漬けたお漬物を持参して振る舞ってくださる。
僕はこっそりと楽しみにしている。
こういう事で記憶していくのだから、食いしん坊の僕らしいと自分で思う。
彼女は僕より少しお姉さんだが、同じ病気だと今回始めて知った。
学生時代はソフトボールの選手だったとかで、現在の趣味もラジオでの野球観戦らし
い。
まだ光は確認できるとおっしゃった。
「光が感じられて良かったですね。人生の最後までそれが続きますように。」
もう光を確認できなくなっている僕はこっそりと心の中で願う。
新年会の最後は大津吹奏楽団の方達の演奏だった。
これもまた、ひとつひとつの楽器を説明してくださった。
どんな形か、どんな大きさか、そしてどんな音が出るかをやってくださったのだ。
視覚障害者の僕達へのお年玉みたいな配慮だなと感じた。
数曲の演奏があったが、やはり「琵琶湖周航の歌」はあった。
滋賀県での視覚障害者の集いでは必ず耳にする。
100年以上も県民に愛されている歌となっているらしい。
「琵琶湖周航の歌」のメロディが心に染み込んでいった。
僕は今、この滋賀県大津市に住んでいるんだなとしみじみと思った。
僕の人生での三つ目の故郷、今年もいい一年になりますように。
(2026年1月11日)
チューリップの芽
球根を植えたのは10月だった。
今日まで雪がちらついた日はあった。
積もった日はなかったと思う。
氷水のように冷たい雨が降った日はあった。
幾日もあった。
北風がウナリ声をあげた日もあった。
乾燥が数日続いた時もあった。
日毎に環境は変化していた。
この条件で人間が戸外にいたら生きていけない。
命は尽きるだろう。
そっと鉢植えの土の上を探した。
右手の指の腹で土の表面を撫でるように探した。
指が堅い芽に触れた。
間違いなくチューリップの芽だ。
今度はそれを親指と人差し指でそっとつまむようにして確かめた。
堅さが伝わってきた。
その堅さに息を飲んでしまった。
宿っていた生命の強さだろうか。
わずか50グラム足らずの球根の中に潜んでいた強さだ。
きっと鮮やかな緑色なのだろう。
緑色は太陽の光を浴びながら、やがてやさしさを生み出していくのだ。
それは赤や黄色や桃色などの花弁に変化していく。
光は魔法使いなのかもしれない。
そんなことを考えたらうれしくなった。
春が楽しみだ。
(2026年1月7日)
69歳
50歳代後半から60歳代前半、歳をとるのを嫌だなと思ったりしたことがあった。
様々な制度が65歳からを高齢者と定義していたからかもしれない。
まだ高齢者じゃないというような気持ちがどこかにあったのだろう。
でも少し変化を自覚するようになった。
例えば、太りやすくなった。
基礎代謝は落ちているのにこれまでと同じように食べるからだろう。
数年前のズボンがはけなくなった。
元々悪かった記憶力、更にひどくなった。
いろいろな単語が口から出るのに時間がかかるようになった。
聴力も少し落ちてきたような気もする。
認めざるを得ない現実だ。
気持ちにも変化が起こり始めた。
今日僕は69歳になった。
素直にまず感じること、ここまでこれたことへの感謝だ。
歳をとるのが嫌なのではなく、また元気で誕生日を迎えられたことがうれしいのだ。
これからまだまだ、身体能力などは右肩下がりで少しずつ落ちていくのだろう。
上手にお付き合いしていくのが歳を重ねるということなのかもしれない。
68年間の経験はそこにつながるような気もしてきた。
食べ過ぎないようにしよう。
運動も少しは考えよう。
外出の際は慌てずにそしてより緊張感を持って動こう。
困ったら堂々と周囲に援助依頼をしよう。
心を安らげる時間は一番大切にしよう。
そしてまだまだできることがあると思っている。
やらなければいけないことがあると思っている。
歳を重ねながら、活動範囲などは広がってきている部分もある。
今年も既に、千葉、東京、長崎、鹿児島と仕事の予定が入っている。
社会に関われること、感謝しながらしっかりと取り組んでいきたい。
昨日が今年最初の仕事の日、独居の先輩を訪ねて歓談すること、「国境なき医師団」
に寄付を届けることが予定だった。
どちらもちゃんとできた。
帰宅して歩数計を確認したら、11,803歩だった。
今朝はいつものようにイノダのスティックコーヒーで一日が始まった。
いいスタートができたような気がする。
ささやかでいい。
僕にできることをしっかりとやっていこう。
視線は未来だ。
(2026年1月5日)
メッセージを発信するということ
昨年を振り返ってみた。
関西万博の成功に関われたことが大きな出来事のひとつだった。
そしてそれはきっと僕の人生の大きな思い出のひとつとなるだろうと思った。
きっかけは著書だった。
僕はこれまで4冊の本を出版している。
その2冊目が2008年に角川学芸出版から刊行された「見えない世界で生きること」というエッセイだった。
イギリスでその本の書評を書いてくださった人がいた。
ロンドンで翻訳の仕事をしておられる日本人だった。
イギリスで僕のエッセイを読んでくださった人がいるのかもしれないと思うとなんとなくうれしかった。
昨年、その翻訳者はたまたま関西万博の英国パビリオンの立ち上げに関わるディレクターとしての仕事をされることになった。
その過程で僕のことを思い出して声をかけてくださったのだ。
17年も前の著書がコンサルタントという仕事につながったのだ。
その業務内容はアクセシビリティに関するアドバイザー、未来に向かう仕事だった。
こういうことを奇跡と呼ぶのだろう。
幸運の奇跡だった。
本は他にもたくさんの奇跡を起こしてくれた。
僕の活動の力となってくれた。
まさに活字の力だ。
そしてそういう意味ではこのブログもそうかもしれない。
たくさんの方が読んでくださっている。
2012年に始めたブログ、昨年暮れ200萬アクセスに達した。
このブログはわざわざアクセスしてくださった人だけに届けることができるメッセージだ。
現代社会で主流となっているSNSのような発信力はない。
いいねのボタンもないし、ない方がいいと思っている。
愚直に丁寧に書いていければと思う。
読んでくださるお一人お一人に感謝の思いが沸き上がる。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が笑顔で参加できる社会、そこに向かうためのメッセージだ。
今年もまた、しっかりと未来を見つめて書いていきたい。
感謝をしながら書いていきたい。
読んで頂ければ有難いです。
そして、うれしいです。
一年、宜しくお願い致します。
(2026年1月1日)
68歳のおにいさん
僕が彼と初めて出会ったのは45年くらい前だった。
僕は大学を出たばかりの22歳、世間知らずの青二才だった。
彼は小学校1年生、6歳だった。
当時の養護施設には2歳から15歳まで、60人くらいの子供達が暮らしていた。
いろいろな事情で家族と一緒に暮らせない子供達だった。
子供達は社会のひずみやゆがみの影響を一番に受けていたのかもしれない。
そして施設はとても貧しかった。
僕は昼夜の別なく働いていた。
社会に対する悲しさと悔しさがエネルギーになっていたのだと思う。
そうするしかなかった。
でも、「お父さん」、「お母さん」という単語を使わない子供時代、やはり僕には理解できなかったのかもしれない。
そして、子供達のために、ほとんど何もしてあげられなかった。
彼が15歳で独りぼっちで社会に出ていった日のことを薄っすらと憶えている。
当時の日本は既に高校進学率は90パーセントを超えていた。
世間は高度経済成長の中でどんどん豊かになっていく時代だった。
でも、それは施設には届いていなかった。
僕はただ祈るしかできなかった。
見えなくなって何が一番辛かったかと尋ねられることがある。
それは大好きだった仕事を続けられなくなったことだろう。
働き続ければ、もう少しは何かできたかもしれないと今でも思う。
「おにいさん、変わっていないですね。」
53歳になったおじさんは会うなり僕にそう言った。
あの頃のままの呼び方だ。
懐かしい話は尽きなかった。
「今の時代だったら、お兄さんはきっと警察に捕まっていますよね。」
子供達とよく格闘していた僕を彼は笑った。
僕の脳裏には少年時代の彼の顔が蘇っていた。
それから僕達はお互いの人生を振り返った。
彼は見事に一人の人として生きてきてくれたのを感じた。
ただただうれしく思った。
忘れていた言葉が蘇った。
当時の子供達の部屋に掲げていた言葉だ。
僕が汚い字で書いたものだった。
「愛するやさしさと 生きていく強さを あなたに伝えたい」
伝えられたとは思っていない。
でも、彼は社会の中でそれを学んでくれたのを知った。
「今日は貴重な時間をつくってもらい、ありがとうございました。
たまには人生立ち止まって振り返ってみると、違う景色が見れますね。
有意義な時間を過ごさせてもらいました。」
彼から届いたメールには豊かな言葉があった。
また来年の再会を僕達は約束した。
愛するやさしさと生きていく強さ、今日僕は彼から学んだような気がした。
おにいさんもしっかりと前を向いて生きていこうと思った。
(2025年12月29日)