柿の木の枝の隙間から

久しぶりに庭仕事をした。
本当に久しぶりだった。
早朝に家を出て夜帰宅という日が続いていたためだ。
それ以前もたまに休日はあったのだが、雨だったり別の用事で庭に出れなかった。
16時くらいに帰宅できた日に玄関のプランターにチューリップの球根を植えたことは
あった。
今年最後のゴーヤの収穫をしたのも夜だった。
しっかりと草抜きをしたのは9月の終わり頃以来だったかもしれない。
予想はしていたが雑草が凄かった。
所々、土が隠れるくらいに生えていた。
ただただその生命力にはいつものように驚いた。
雑草への敬意みたいなものさえ感じた。
柿の木の下は枯れ葉で覆われていた。
見事な枯れ葉のジュータンだった。
草抜きも枯れ葉の掃除も大変なのだが心はうれしくなった。
小さな僕の家の庭にも秋がきてくれたのだ。
僕はわざと枯れ葉の上に座った。
そしてそっと寝転がった。
いくつになっても、時々少年みたいな行動をしてしまうことがある。
もう恥ずかしさも照れくささもない。
僕は僕でいいんだと素直に思う。
空を見上げた。
裸ん坊の柿の木の枝の間から秋空が見えると思った。
じっと見つめた。
少しだけ涙がこぼれた。
自分でも意味不明の涙がこぼれた。
(2024年11月19日)

先週の月曜日から昨日の木曜日までの11日間、ずっと外出していた。
小学校、中学校、高校、専門学校、大学、社会人、すべてに関わった。
未来への種蒔、たくさんできた。
そして金曜日の今朝、満足感と疲労感が混在した朝を迎えた。
コーヒーの香りが脳に染みる。
体力は落ちてきているのだろうかとふと考える。
電車で立ったままの状態で睡魔に襲われたりした。
これまでにはなかったことだ。
老いを認めていくことも必要なのかもしれない。
僕は基本的には白杖での単独移動だが、いくつかのサポートも受けた。
ガイドヘルパーさんのお世話にもなった。
たまたまなのだが、この期間に3名の女子大学生も僕のサポートをしてくれた。
3名とも別々の大学で接点はない。
それなのに、3名ともが僕に教えてくれたことがあった。
「水色みたいな空です。」
「この辺りはビルに囲まれているので空が映えます。」
「空、少し高くなりましたよ。」
「空にはうっすらと筋状の雲があります。」
彼女たちは申し合わせたように、僕に空を伝えた。
尋ねたわけでもないのに空を教えようとした。
僕はその度に空を見上げた。
空を見上げた僕を見て、3名ともが微笑んだ。
今朝それに気づいて、不思議だと思った。
秋になったということなのだろう。
今日と明日は久しぶりの連休、のんびりしよう。
音楽でも聞きながら畑仕事もいいな。
空も見てみよう。
連休が終われば、来週はもっとハードなスケジュールだ。
(2024年11月15日)

ワールド

1年ぶりに訪れた中学校、
体育館には150名程度の1年生が待っていた。
12歳、13歳の少年少女達だ。
僕は午後に大切な会議が入っていた。
3,4時限目は100分くらいの時間があるのだが、60分くらいで終了することを了承
して頂いていた。
終了後は担当の先生と体育館から駅に直行する手筈だった。
僕はいつものように生徒達と向かい合った。
心を込めて語りかけた。
講演の後の少しの時間、生徒達からの質問に答えるつもりだった。
質問は次から次に出て止まらなかった。
僕は時間が気になって少し焦っていた。
結局、予定していた電車をあきらめた。
会議に遅刻することを選んだのだ。
生徒達の質問にひとつでも答えたいと思った。
会場の空気は笑って、時々しんみりして、そして真剣に未来を見つめた。
「いつもは授業中によく寝ている生徒達が皆起きていました。真剣に前のめりになっ
て聞いていました。思わぬ生徒が手を挙げていました。」
帰り際、先生は生徒達の様子を教えてくださった。
この種類の感想はよくある。
松永ワールドと表現されている先生方もおられる。
でも、実は、それは僕のワールドではない。
見えない僕が障害について一生懸命に話す。
見える人も見えない人も見えにくい人も、皆が参加できる社会について話す。
白杖を握りしめて未来を見つめて話す。
それを受け止めてくれた生徒達が創ってくれるワールドなのだ。
僕自身もそのワールドを感じることはよくあるのだ。
学校を出ようとした瞬間だった。
「松永さーん!」
別の校舎の上の階から少年達の大きな声がした。
僕は振り返って、声の方向を見上げた。
「何年生?」
「2年生でーす。」
昨年話を聞いてくれた生徒達だった。
「ありがとう。」
僕は声に向かって笑顔で手を振った。
大きく手を振った。
少年達も手を振った。
ほんの少しかもしれないけれどワールドは未来に向かう力になっていることを感じた。
(2024年11月9日)

少年からの手紙

少年から届いた手紙は点字で書かれていた。
少年は小学校2年生、全盲だった。
先日伺った小学校にお母さんと一緒にきてくれていた。
4年生対象の講演だったから話の内容は2年生には少し難しかったかもしれない。
それでも一生懸命に話を聞いてくれたのが伝わってきた。
手紙には、大人になったら楽しいことがたくさんありそうだと書かれていた。
そう感じてくれたとすれば、講演会場には豊かな時間が流れていたのかもしれない。
そのことについては、僕はうれしく感じた。
少年にとっては当たり前のことなのだろうが、達者な点字に驚きながら読んだ。
ふと指が止まった。
「まつながさんわ めが みえない だいせんぱいです。」
点字は聞こえる音を文字で現すのが基本だ。
だから、「まつながさんは」ではなく「まつながさんわ」になる。
「だいせんぱい」という文字を僕は幾度か指先で確認した。
そして、恥ずかしい気持ちになった。
これまで出会った同じような少年少女達のことを思い出した。
いろいろな地域で全盲や弱視の子供達と出会った。
今でもつながっている人も複数いる。
子供達が大人になった時に就職に苦労している現実が今でもある。
社会はまだまだ障害を正しく理解してくれているとは思えない。
後輩達のために僕にできることは何だろう。
自らに問い続けてきたのは事実だ。
そして無力を思い知らされてきた。
結局、自問自答の後にたどり着くのはいつも同じだ。
コツコツとメッセージを発信していこう。
ささやかだけど、僕にできることをやり続けよう。
見えなくなってからの25年を超える歳月、僕なりに頑張ってきたつもりだ。
でも、だいせんぱいどころかちゅうせんぱいにもなれなかった。
少年の手紙を読み終えて思った。
せめて、しょうせんぱいくらいにはなりたい。
心の底からそう思った。
(2024年11月4日)

キンモクセイの小瓶

子供の頃、キンモクセイの香りを小瓶に詰めて持ち帰ったことがある。
そんな思い出を話してくれた人がいた。
その話を聞いた時、僕は不思議なやさしさに包まれた。
彼女の小学生時代を知る由もないのだが自然に想像は膨らんだ。
小瓶を持った少女は空に向けて小さな手を動かしたに違いない。
こぼれないようにしっかりと栓をして走って帰ったはずだ。
家に帰り着いて、そっとその栓を開けたのだろう。
想像しただけで笑顔になった。
そんな思い出のある人と出会えたことを幸せだとその時思った。
そして、キンモクセイの香りに出会う度にその話を思い出す。
その人を思い出す。
どこかで元気でいてくださるようにと心から願う。
(2024年10月31日)

逆転勝利

大学のカフェで学生と待ち合わせの約束をしていたのだが遅くなっていた。
出かける前にバス時刻を確認したつもりだったが間違っていたらしい。
30分に一便しかないバスに乗り遅れて焦って動いていた。
烏丸御池駅で東西線を降りた時だった。
「お手伝いしましょうか?」
女性の声がした。
急いでいた僕は彼女の声をとてもうれしく感じた。
行先を尋ねたら、たまたま同じ竹田駅だった。
僕は急いでいることを伝えて乗り換えの電車の乗降のサポートもお願いした。
図々しい自覚はあったがとにかく急いでいたのだ。
彼女は快く引き受けてすぐにルート検索をしてくださった。
電車が駅に到着してからバスが発車するまでの時間は1分しかないとのことだった。
いくら何でもそれは無理と思った瞬間だった。
「私、時々そのバスを利用するのですが、遅れてくることもたまにあります。」
竹田駅からは彼女は別行動とのことだったが、バス停までのサポートは引き受けてく
ださった。
僕達は一か八かに挑戦することにしたのだ。
電車の中で作戦会議をした。
「僕が肘を持ったら、目が見える普通の人の速めのスピードで動いてください。
エスカレーターも問題なく乗れますから大丈夫です。
バスロータリーに行くには階段とエレベーターがありますが、きっと階段が早いと思
います。
僕は全盲ですが、歩くのは得意なんです。」
僕の必死さが伝わったのか、彼女は笑いながら了解してくださった。
いよいよ電車が駅に到着するという直前だった。
「少しでも早く動くために前のドアまで移動しましょう。」
彼女の本気さが伝わってきた。
電車のドアが開き、僕達はホームに降りた。
そしてすぐに速足で歩き始めた。
運動会の二人三脚みたいな感じだった。
プロのガイドさんでもちょっと難しかったかもしれない。
ホームを移動しエスカレーターで改札階へ行き、改札を通り抜けた。
そして、最後の階段にさしかかろうとした時だった。
「バスが見えました。乗り場に停車しています。あっ、動き出しました。」
ランニングホームランを狙って、まさにホーム直前でアウトという感じだった。
でも、僕達の動きには一切のロスはなかった。
僕は十分満足していた。
結局、僕はまたまた次のバスまで30分待つことになった。
彼女はバス停の空いている席を見つけて座らせてくださった。
僕は心からの感謝を伝えた。
楽しかったと言いたかったが、それは飲み込んだ。
彼女と別れてから学生に電話をした。
携帯電話を耳にあてて話始めようとした時だった。
キンモクセイの香りの中にいることに気づいた。
曇り空、微風、まさにキンモクセイ天国だった。
見えない僕はバスがくるまでの30分、ただ座って待つしかなかった。
30分、ただただ、キンモクセイの香りに包まれていたのだ。
生きてるっていいよなぁ。
心からそう思った。
ランニングホームランにはならなかったがゲームは逆転勝利だなと笑顔がこぼれた。
(2024年10月29日)

ヤナギバルイラソウ

僕が出会う人の数は平均より多いと思う。
専門学校や大学で非常勤講師という仕事をしているし、講演活動などもあるからだ。
多くの人と出会えるということはうれしいことだ。
人生が交差する時には発見や学びがあることが多い。
それは幸せにつながる。
でも、僕には画像はない。
幾度お会いしてもなかなか記憶はできない。
失礼になってしまいそうで自分を悲しく感じたこともあった。
「どなた様ですか?」
と問いかける勇気もなかった。
見えなくなった頃、これは辛いことのひとつだった。
声だけのやりとりで分かるのは、子供か大人かということと性別くらいだろうか。
いや、時にはそれさえ不安になることもある。
髪型がどうか、どんな服装か、メガネをかけておられるか、ネクタイが似合っている
のか、そしてどんな笑顔なのか、眼差しはどうなのか、何も分からない。
少しでも触ることができればもう少しは記憶に残るかもしれない。
でも、実際にはそれはなかなかできない。
大学で僕の講義を受けたお茶目な女子学生が僕の手を自分の顔に誘導してそっと囁い
たことがある。
「私、結構美人やで。」
でも残念ながら、目も鼻も口も耳もあることは分かったが顔にはならなかった。
ただ、彼女の変な勇気に敬服して伝わったふりはしておいた。
そう考えると実際にはこの触るということもそんなに意味はないのかもしれない。
いつの頃からか、もう画像はどうでもよくなった。
同時に記憶しようという努力を放棄した。
結構楽になった。
今年出会った人の数を考えてみた。
この出会うというのは僕の声を聞いた人というイメージだ。
小学校などの福祉授業も加えるとやはり数千人だろう。
その中で一回でも言葉のキャッチボールが成立したのは1割くらいだろうか。
それが複数回となるのはまたその中の数パーセントとなる。
そう考えるとつながるということは不思議なことなのだ。
自分の思いとは別のところで結ばれていく何かの力があるのかもしれない。
それを縁と呼ぶのだろう。
先日縁がつながった人からのメールには「ヤナギバルイラソウ」という花が紹介して
あった。
勿論、僕はその花を知らないし想像もできない。
そして見ることはない。
ただ、そのメッセージをうれしく感じたのは事実だ。
花言葉を調べてみた。
「正直」「勇気と力」「愛らしさ」とあった。
なんとなく似合うように思った。
(2024年10月26日)

悲しい小さな心

東京4日目、研修最終日の朝、いやまだ夜と表現した方がいいかもしれない。
午前3時過ぎには目覚める。
最近はこの時刻が珍しくなくなった。
老いを感じるようになったひとつだ。
このリズムだから昼食をすませたくらいから強烈な睡魔に襲われることがある。
もうこれも仕方ないとあきらめている。
枕元のスマートフォンを握ってシリを呼び出す。
「人生の扉を聞きたい。」
竹内まりやの声が羽毛布団のように僕を包む。
しばしのぬくもりを楽しむ。
最近は竹内まりやか桑田佳祐かアイミョンが定番となっている。
しばらく音楽を楽しんだ後、ベッドから起き出してポットに水を入れる。
ホテルは連泊だし、だいたいの構造は頭に入っている。
それから、紙コップに個包装のインスタントコーヒーの粉を入れて、ポットの電源を
入れる。
インスタントコーヒーは持参したいつものイノダコーヒーだ。
お湯が沸くまでの間にトイレと洗面を簡単に済ます。
出かける前にシャワーを浴びるから簡単なのだ。
予定通りに沸騰していたお湯を紙コップに注ぐ。
いつもの香り、おいしさ、9割の満足だ。
後の1割はなんだろうと思い浮かべてふと気づく。
唇が紙より陶器を望んでいるのだ。
次回からマグカップも持参しようと思った。
ホテルの部屋は好きだ。
エアコンと冷蔵庫の微かな音以外はほぼ無音だ。
静けさがいい。
コーヒーを飲みながら、折れかかった気持ちを整える。
昨夜帰り着いて、どこかでお金を落としたことに気づいた。
小銭入れの横に入れておいた千円札がないのだ。
タクシーに乗る前は15枚くらいあったのは憶えている。
たまたまいろいろなお金のやりとりがあって千円札が多くなってしまっていた。
パンパンに膨らんだ小銭入れ、気をつけなくちゃと思っていた。
最終、3千円でタクシーの支払いを済ませたから、12枚くらいはあるはずだった。
ホテルに帰り着いて小銭入れをポケットから出した時、1枚もないことに初めて気づ
いた。
タクシーを降りる時に落としたのかもしれない。
悔しい気持ちをいろいろとなだめる。
1万円札じゃなかったからいいことにしようと自分に言い聞かす。
ケガをしたのではないんだからと自分を慰める。
見えないからと言い訳したいが、目とは関係ないことは十分理解している。
いったりきたりする気持ちをゆっくりと整理する。
あきらめの悪い小さな心が悲しくなる。
抜け出すには先を見るしかない。
研修最終日、しっかりと仕事をしよう。
せっかく集ってくださった皆さんが少しでも満足してくださるように頑張ろう。
それが僕達の未来につながっていく。
それはお金よりずっと大切なことだ。
僕にできることをしよう。
人生、くじけることもあるけれど、楽しいこともまたきっとある。
つい脳裏に浮かびそうになる千円札を頑張って追いやる。
見えてた頃も小市民だったけれど、見えなくなってもかわらない。
よし、シャワーを浴びて出発。
(2024年10月20日)

写真撮影

出版社の担当者は有名なウナギ屋さんに僕を案内してくださった。
原稿のひとつにウナギが好物と書いていたからかもしれない。
そんなご馳走を頂けるだけでも幸せなことだと思った。
腹ごしらえをしてからタクシーで鴨川の河川敷に向かった。
今日の目的は新しい本の表紙の写真撮影だ。
僕はデザイナーから指定された黒のズボンに黒の靴だった。
上着のシャツは2枚用意したが、結局白杖が目立つ黒系統の服となった。
カメラマンはどれだけシャッターを押したのだろう。
百枚以上は撮影したような気がした。
空は秋晴れ、のどかな時間だった。
たった一冊の本のためにたくさんの人がそれぞれの立場で協力してくださっているの
を実感した。
光栄なことだと思った。
時々表情が硬くなるらしい僕に関係者はそっと声をかけた。
「松永さん、さっきのウナギを思い出してください。」
どうやら魔法の言葉になったらしかった。
撮影中に幾度か言われた。
自分で見ることはない写真、
でもなんとなく楽しみだ。
(2024年10月16日)

秋風

主催は更生保護女性会と伺っていた。
当日の会場には、食生活改善推進委員の方、女性団体連絡推進協議会の方、民生児童
委員の方、いろいろな立場の方が来てくださっていた。
祁答院や霧島などずいぶんと遠方からも来てくださっていた。
参加者数も僕の予想より多かった。
僕は感謝を噛みしめながら話をした。
心を込めて、そしてしっかりと未来を見つめながら話をした。
講演が終わって、ふと思った。
滋賀県大津市で暮らす無名の僕がそんなに多くの参加者を集められるわけがない。
関係者に尋ねてみた。
やはりいろいろと動いてくださった人がおられることがわかった。
彼女は手作りのチラシまで作ってあちこちに声をかけてくださったようだった。
以前、僕の話を聞いてくださった彼女は、その話をまた別のお知り合いにも聞いて欲
しいと思ってくださったのだ。
「理解は共感につながります。
共感は力となります。
力は未来を創造すると僕は信じています。」
最初に出版した著書の後書きに僕はそう書いた。
そして、その種を運ぶ風になってくださいと願いを書いた。
その本が出版されてから20年の歳月が流れた。
ベストセラーにはならなかったがロングセラーとなった。
11刷を迎えた本は今でも少しずつ社会に運ばれていっているようだ。
そして、講演回数も千回くらいにはなったかもしれない。
そこには風になってくださったたくさんの人達がおられるのだ。
未来がどれだけ創造されたのか、それはそんなに胸を張れる答えは出ていない。
まだまだ僕の努力不足もあるのだと思う。
だからもうちょっとは頑張らなくちゃ。
別れ際に彼女はハロウィンの袋に入ったお菓子を僕の手にそっと載せてくださった。
頑張ってくださったのに、頑張ったよとはおっしゃらなかった。
さりげなく、僕もそうありたい。
もうすぐ、秋風がそよぎ始める。
(2024年10月10日)